ないよ、こんな生活は山のようにあるんだから恐《おそ》れる事はないだろう」
 二人は、もう畳の上に坐《すわ》って話している事が憂鬱《ゆううつ》になったので、僕は彼女に戸締《とじま》りを命じて帽子《ぼうし》とステッキを持った。彼女は、紅色の鯨帯をくるくると流して自分の腰《こし》に結び始めた。壁《かべ》の小さい柱鏡に疲《つか》れた僕の顔と、頬《ほお》のふくれた彼女の顔が並んだ。僕は沁々《しみじみ》とした気持ちで彼女の抜き衿《えり》を女学生のように詰《つ》めさせてやった。
 戸締りをして戸外へ出ると、二人は云いあわしたように胸を拡《ひろ》げて息をしながら、青麦のそろった畑道《はたみち》を歩いた。秋になると、この道は落葉で判らなくなる道であった。いつか、まだ独身者であった時の百合子との散歩を僕はふと考えたものであったが、僕の後からゆっくり歩いて来ている彼女は、紙雛《かみびな》のように両袖《りょうそで》を胸に合わせて眼を細めて空を見ているではないか。――
「二人位並んで歩けるよ、さあおいで」
 それでも、彼女はまるで隣人《りんじん》同士のように遠慮《えんりょ》してしまって、なかなか歩を揃《そろ》えようとはしなかった。
「いいねえ。ほら雲雀《ひばり》が啼《な》いているよ」
「…………」
「どうしたんだい?」
「私、馬鹿なんでしょうか、風景《けしき》がちっとも眼に這入《はい》らないで、今だに一生懸命で戸締りをしているようなの、私時々体が二ツにも三ツにも別れて勝手な事しているンですよ」
「君が、僕の背中ばかり見ているからさ、さア、先になって行ってごらん、厭《いや》でも美しい景色が見えるから……」
 彼女を先へ歩かせると、今度は僕の方がたまらなかった。赤緒《あかお》の下駄《げた》と云えば、馬糞《ばふん》のようにチビた奴《やつ》をはいている。だが、雑巾《ぞうきん》をよくあててあるらしく古びた割合に木目が透《す》きとおっていた。
「唄でもうたわない?」
「ええ……唱歌なんてもの皆忘れてしまった……こんな時唄う歌なんてむずかしいわねえ」
 僕達は小川《おがわ》の上のやや丘《おか》になった灌木《かんぼく》の下に足を投げ出して二人が知っている「古里」の唄をうたい始めた。
 雲雀が高く上っている。若葉が風にまるでほどけて行くようであった。僕は眠《ねむ》たくなって、ゴロリと横になると、帽子を顔にかぶせて眼をとじた。瞼《まぶた》の部屋の中は真暗《まっくら》だが、渦《うず》のような七色のものがくるくる舞っている。僕のそばから離れて行ったのか、彼女が柔《やわらか》い草を踏《ふ》んで向うへ遠ざかるのが頭へ響《ひび》いて来た。
「オイ、あんまり遠くに行っちゃア駄目《だめ》だよ」
 帽子の中からそう云ったまましばらく、僕はうたたねしてしまったらしい。――ふと眼が覚《さ》めると彼女は、遠くの合歓《ねむ》の花の下で、紅の帯をといて、小川の水で顔や手足を洗っていた。
 遠くから見ていると、その姿がまるで子守女のように見える。
 長い間、帽子の下で眼をとじていたせいか、起きあがった時は夕方のように四囲《あたり》が薄暗いものに見えた。僕は袂《たもと》の底から、くしゃくしゃになった煙草《たばこ》を一本出して火を点じた。さわやかな初夏の憶《おも》いが風になって僕の袂をふくらます。
 合歓の木の下の彼女は、やがて帯を結んで堤《つつみ》へ上って来た。
「何だいその白い風呂敷は……」
 彼女は癖《くせ》のように、その風呂敷を背中に隠して、ニヤニヤ笑いながら「摘草《つみくさ》したのよ」と云った。
 あんまり食べられそうな草がたくさんあるからと云うのだ。彼女の拡げた風呂敷の中には、ひずる[#「ひずる」に傍点]やたんぽぽ[#「たんぽぽ」に傍点]や、すいば[#「すいば」に傍点]のようなものまで這入っている。白い風呂敷と思ったのは、彼女のさらし[#「さらし」に傍点]の襦袢なのであった。「だから、僕は安心して貧乏が出来るんだね」とも口に出して云いたいほど、彼女は二十三歳にしては、ひどく世帯《しょたい》くさいのだ。
 夜は、これらの摘草を茹《ゆ》でて食卓《しょくたく》に並べた。色は水々しかったが、筋が歯にからんで、ひずる[#「ひずる」に傍点]の噛《か》み工合《ぐあい》などはまるで蒟蒻《こんにゃく》のようであった。

 墓場の向うの火葬場《かそうば》には、相変らず毎日人を焼く煙《けむり》がもくもくと埃《ほこり》色に空に舞いあがっている。――僕はもう職業を求めるために街へ出たり、履歴書など書く事は徒労だと思い始めた。僕が頭を下げて行った先々の人間達は、いわゆるフォイエルバッハの大邸宅《だいていたく》と名づけられるような、中では茅屋《ぼうおく》にある場合と違った考えを人達はしているものだ、で、全くもってムザンで
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