ありすぎる。――朝眼覚めて口を洗い、ゴロリと横になって、人を焼く煙を眺《なが》めている僕のかたわらに、おぼつかない手付でもって縫いものをしている彼女がいる。髪の毛には網《あみ》のように白い埃が溜《たま》っていて、それを眼にした僕の口の中には、何か火の玉をくくんだように切ないものがあった。
彼女はきっと「私、いい縫物屋を知っていますから頼《たの》んであげましょう」とでも云って、この着物の仕事を森本ちぬ子から取って来たのに違いない。
「ねえ、この間平井さんの奥《おく》さんに会ったら、早くちぬ子さんに着物を返した方がいいわ、縫物屋へ持って行くッて云って、菊さんは質屋へ置いてしまって、とても困ってるッて云いふらしてるのよ、なんて教えて下《くだ》すッたんだけど、まさか、こんな洗い※[#「日+麗」、第4水準2−14−21]《ざら》した着物五拾銭も借さないでしょうのに、私とても淋《さび》しくなってしまった」
僕は沈黙《だま》っていた。彼女がその着物をちぬ子の家から持って来てもはや十日あまりにもなるのだが、一心になって毎日こつこつ縫っている彼女に向って、何を僕が咎《とが》めだてする事が出来るだろう。
「でも、もうこれで出来上ったのだから、持って行こう……」
彼女は、出来上った着物を畳《たた》んで座蒲団《ざぶとん》の下に敷《し》いた。
「出来上ったンなら早く持っておいで、友情のない奴の品物なンぞ見るのも不愉快《ふゆかい》だ」
僕は一々彼女に向ってああしては悪い、こうしては悪いなどと云う事に草臥《くたび》れ始め、自分のキリキリした神経もこの頃《ごろ》では少しばかり持てあまし気味でいるのだ。
履歴書も四五十通以上は書いたろう、あらゆる友人を頼《たよ》って迷惑《めいわく》な手紙も随分書いたが、頼んだ友人達自身が何等《なんら》の職もなく弱っている者が多かった。
彼女は着物を風呂敷に包むと、悪戯《いたずら》ッ子らしく眼をクルクルさせて僕の両手を引っぱり、台所へ連れて行くのだ。「ねえ、私、ちぬ子さんにいいお土産《みやげ》を持って行こうと思うのよ」そう云って彼女が台所の流し場を指差したのを見ると、西洋種の紅い豆《まめ》の花や、束《たば》の大きい矢車草がぞっぷりと水につけられていた。
「おお綺麗《きれい》だなア……」
「綺麗でしょう……」
「どうしたンだい、こんなゼイタクな花束を?」
「ううん……新墓へ行って盗《と》って来ちゃったのよ。私、もったいないと思うたわよ。だって随分あるの、お金持ちのお墓なんて十円位も花束があがっててよ……」
「で、お土産に利用するのかい、仏も浮《うか》べないねえ……」
「だって美しい花だものほしいわ」
彼女は、その花束を如何にも花屋から買ったかのように紙に包んで、風呂敷をかかえ日向《ひなた》の道へ小犬のように出て行った。
僕は起きあがって窓ッぷちへ腰を掛けて墓の道を眺めた。墓を囲んだ杉《すぎ》や榎《えのき》が燃えるような芽を出している。僕にはなぜか苦しすぎる風景であった。夜が待ち遠しい位だ。早く夜になってくれるといい。部屋の中に空箱《あきばこ》のように風が沁みて行ったが、生きている喜びも何も感じられないほど、すべてが貧弱なもので、二|畳《じょう》と八畳きりの座敷の中には、この僕一人が道具らしい存在だ。歪《ゆが》んだ机の上には、訳しかけのプウシュキンの射的の草稿《そうこう》が黄いろくなったままだが、もうこんなものも売りに歩く自信もなくなりかけた。僕はふと誰かの話を憶い出した。バルザックのプチイ・ブルジョアを半年かけて訳して、六百枚あまりが百円にもならなかったと云う侘しさを。半年の情熱をかたむけて訳したその人の気持ちはこれまた侘しすぎる以上だろう。
――僕は一二年前の大学生活の中に、かつて一度も生活の不安を感じた事はなかったはずだったが、いや、生活の事を考えるのが恐ろしかったのかも知れない、薄暗い珈琲《コーヒー》店の片隅で考える事は愚《ぐ》にもつかない外遊の空想などばかりであった。
僕はまた、壁の帽子をかぶって、彼女の厭がるステッキを持った。墓の中の散歩をこころみるべく、僕もまた彼女の去った墓の道へ出てみた。熱ばんでたまらないと云った風に、雀《すずめ》達が、ころころ地べたを転がるように飛んでいる。なるほど、彼女が云ったように、新墓には草のように花がそなえてあった。もう萎《な》えかけたのなどもある。三十歳、十五歳、十九歳、皆、若い仏達であった。その中で一ツ僕の眼をとらえた紀意大善姉と書いてある墓標があった。墓標の裏には、レニエエか何かの「浮世《うきよ》には思い出もあらず」と記してあったが、この言葉は今の僕の心をひどく温めてくれるものがあった。二十八歳としてあるが、どんな女性だったのだろうか……僕と同じ年齢《ねんれい》
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