僕の不甲斐《ふがい》なさを彼女に見せつけられたようだ。で、僕はたまらなくなって素足のまま墓場の道へ走って出た。
「馬鹿《ばか》! 俺《おれ》はそんなにしてまで苺なンぞを食いたかないンだよッ! お帰り、帰ったらいいだろう……」
 彼女は風呂敷包みを、まるでアンパンか何かのように子供らしく背後に隠《かく》して、しぶとく[#「しぶとく」に傍点]立っていた。そのしぶとさ[#「しぶとさ」に傍点]が余計胸の中に来ると、僕は彼女の髪《かみ》をひきつかんで、まるで、泥魚のように、地べたに引きずって帰って来た。
「君が、こんな一人合点《ひとりがてん》をするから、前の男達も君を殴《なぐ》ったのだろう。僕だって、小刀の一ツも投げたくなるよ。――炭俵《すみだわら》に入れられて、一日|揚板《あげいた》の下へ押《お》し込《こ》められた事があったッて君は云っていた事があったが、前の男の気持ちだって、何だか僕にはだんだん解《わか》って来たよ」
 彼女は涙《なみだ》もこぼさないでしおれていた。風呂敷の中からメリンスの鯨帯《くじらおび》と、結婚の時に着ていた胴抜《どうぬ》きの長襦袢《ながじゅばん》が出て来た。
「こんなもの置きに行ったって仕方がないじゃないかッ」
 ふと彼女を視《み》ると、僕の学生時代のモスの兵児帯《へこおび》を探し出して締《し》めているのだ。何だか擽《くすぐ》ったいものが身内を走ったが、僕は故意にシンケンな表情をかまえていた。
「君が腹の満ちた恰好《かっこう》で、一ツのものを夫に与《あた》えるのは、それア昔《むかし》の美談だよ。一ツしかなかったら、二ツに割って食べればいいだろう、何もなかったら、二人で飢《う》えるさ」
 これは、素敵にいい言葉であった。僕は僕自身のこの言葉にひどく英雄的《えいゆうてき》になったが、彼女には、それがどんなにか侘《わび》しく応《こた》えたのであろう。急に、まるで河童《かっぱ》の子のように眼のところまで両手を上げて、しくしく声をたてて泣き始めたのだ。
 この泣き方は実に面白い。まるで、閨《ねや》を共にする男へなんぞの色気《いろけ》は、大嵐《おおあらし》の中へ吹《ふ》き飛ばしたかのように、自分一人で涙を楽しんでいる風なのだ。子供のように、泣きながら泥《どろ》の上を引きずられて来た汚《よご》れた手で、足の裏を時々ガリガリやりながら思い出したようにシャックリをする。そのシャックリの語尾《ごび》はまるで羊が鳴いているようにメーと聞えた。
「何だ! 子供みたいに、もうこれから、こんな余計な算段は止《や》めた方がいいよ、判ったかね」
 僕は窓にぶらさがっている濡《ぬ》れタオルを彼女に取ってやって、一人《ひとり》窓の外の花の咲《さ》いた桐《きり》の梢《こずえ》を見上げた。
 実に青々とした空であった。僕は、何でもいいからつくづく働きたいと思った。働いてこの蟹《かに》の穴のような小さな家庭を培《つちか》って行きたいと思った。僕は急に、久し振りに履歴書《りれきしょ》をまた書きたくなって、硯《すずり》に白湯《さゆ》を入れ、桐の窓辺に机を寄せて、いっときタンザしてみた。うつむいていると、美濃紙《みのがみ》が薄《うす》く白いので、窓の外の雲の姿や桐の梢の紫《むらさき》の花の色まで沁《し》みて写りそうであった。
 もはや、行きつくところまで行った風景でもある。彼女はもう泣く事にも飽《あ》いたのか、五月の冷々《ひえびえ》とした畳《たたみ》の上にうつぶせになって、小さい赤蟻《あかあり》を一|匹《ぴき》一匹指で追っては殺していた。

「ねエ、私、お裁縫《さいほう》の看板でも出したいけれど……」
「へえ、君に裁縫が出来るのかね」
「大した事は出来ないけれど、袴《はかま》もかさね[#「かさね」に傍点]も習ったには習ったんだから……」
「だって君、習った事と商売とは違《ちが》うよ――まア、待っているさ、毎日俺も街へ出掛《でか》けているんだから、何とか方法はあるだろう。――学校を出て、すぐ五六拾円にはなるだろうと思えばただ大学は出たものの[#「大学は出たものの」に傍点]だよ、そうだろう……」
「ええだけど、知った人に縫《ぬ》わしてもらったっていいでしょう……」
「知った人ッて皆《みな》貧乏《びんぼう》じゃないか」
「森本ちぬ子さんはどうでしょうか。あの人は、とても羽振《はぶ》りのいい芸術家のところへお嫁《よめ》にいらっしったッて云う事ですわ」
「馬鹿! 食えなかったら、食えないで仕方がないよ」
 それより、僕は机に向って、何か就職の口はないかと遠い友人に手紙を書いた。今となって職業の好みもなく、また、田舎《いなか》住いでも幸福だと云った意味を長々と展《の》べて。彼女にも安心の行くように音読してさえ聞かせてやった。
「物事は当って砕《くだ》けろさ。俺達だけじゃ
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