。そのシャックリの語尾《ごび》はまるで羊が鳴いているようにメーと聞えた。
「何だ! 子供みたいに、もうこれから、こんな余計な算段は止《や》めた方がいいよ、判ったかね」
僕は窓にぶらさがっている濡《ぬ》れタオルを彼女に取ってやって、一人《ひとり》窓の外の花の咲《さ》いた桐《きり》の梢《こずえ》を見上げた。
実に青々とした空であった。僕は、何でもいいからつくづく働きたいと思った。働いてこの蟹《かに》の穴のような小さな家庭を培《つちか》って行きたいと思った。僕は急に、久し振りに履歴書《りれきしょ》をまた書きたくなって、硯《すずり》に白湯《さゆ》を入れ、桐の窓辺に机を寄せて、いっときタンザしてみた。うつむいていると、美濃紙《みのがみ》が薄《うす》く白いので、窓の外の雲の姿や桐の梢の紫《むらさき》の花の色まで沁《し》みて写りそうであった。
もはや、行きつくところまで行った風景でもある。彼女はもう泣く事にも飽《あ》いたのか、五月の冷々《ひえびえ》とした畳《たたみ》の上にうつぶせになって、小さい赤蟻《あかあり》を一|匹《ぴき》一匹指で追っては殺していた。
「ねエ、私、お裁縫《さいほう》の看板でも出したいけれど……」
「へえ、君に裁縫が出来るのかね」
「大した事は出来ないけれど、袴《はかま》もかさね[#「かさね」に傍点]も習ったには習ったんだから……」
「だって君、習った事と商売とは違《ちが》うよ――まア、待っているさ、毎日俺も街へ出掛《でか》けているんだから、何とか方法はあるだろう。――学校を出て、すぐ五六拾円にはなるだろうと思えばただ大学は出たものの[#「大学は出たものの」に傍点]だよ、そうだろう……」
「ええだけど、知った人に縫《ぬ》わしてもらったっていいでしょう……」
「知った人ッて皆《みな》貧乏《びんぼう》じゃないか」
「森本ちぬ子さんはどうでしょうか。あの人は、とても羽振《はぶ》りのいい芸術家のところへお嫁《よめ》にいらっしったッて云う事ですわ」
「馬鹿! 食えなかったら、食えないで仕方がないよ」
それより、僕は机に向って、何か就職の口はないかと遠い友人に手紙を書いた。今となって職業の好みもなく、また、田舎《いなか》住いでも幸福だと云った意味を長々と展《の》べて。彼女にも安心の行くように音読してさえ聞かせてやった。
「物事は当って砕《くだ》けろさ。俺達だけじゃ
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