ないよ、こんな生活は山のようにあるんだから恐《おそ》れる事はないだろう」
 二人は、もう畳の上に坐《すわ》って話している事が憂鬱《ゆううつ》になったので、僕は彼女に戸締《とじま》りを命じて帽子《ぼうし》とステッキを持った。彼女は、紅色の鯨帯をくるくると流して自分の腰《こし》に結び始めた。壁《かべ》の小さい柱鏡に疲《つか》れた僕の顔と、頬《ほお》のふくれた彼女の顔が並んだ。僕は沁々《しみじみ》とした気持ちで彼女の抜き衿《えり》を女学生のように詰《つ》めさせてやった。
 戸締りをして戸外へ出ると、二人は云いあわしたように胸を拡《ひろ》げて息をしながら、青麦のそろった畑道《はたみち》を歩いた。秋になると、この道は落葉で判らなくなる道であった。いつか、まだ独身者であった時の百合子との散歩を僕はふと考えたものであったが、僕の後からゆっくり歩いて来ている彼女は、紙雛《かみびな》のように両袖《りょうそで》を胸に合わせて眼を細めて空を見ているではないか。――
「二人位並んで歩けるよ、さあおいで」
 それでも、彼女はまるで隣人《りんじん》同士のように遠慮《えんりょ》してしまって、なかなか歩を揃《そろ》えようとはしなかった。
「いいねえ。ほら雲雀《ひばり》が啼《な》いているよ」
「…………」
「どうしたんだい?」
「私、馬鹿なんでしょうか、風景《けしき》がちっとも眼に這入《はい》らないで、今だに一生懸命で戸締りをしているようなの、私時々体が二ツにも三ツにも別れて勝手な事しているンですよ」
「君が、僕の背中ばかり見ているからさ、さア、先になって行ってごらん、厭《いや》でも美しい景色が見えるから……」
 彼女を先へ歩かせると、今度は僕の方がたまらなかった。赤緒《あかお》の下駄《げた》と云えば、馬糞《ばふん》のようにチビた奴《やつ》をはいている。だが、雑巾《ぞうきん》をよくあててあるらしく古びた割合に木目が透《す》きとおっていた。
「唄でもうたわない?」
「ええ……唱歌なんてもの皆忘れてしまった……こんな時唄う歌なんてむずかしいわねえ」
 僕達は小川《おがわ》の上のやや丘《おか》になった灌木《かんぼく》の下に足を投げ出して二人が知っている「古里」の唄をうたい始めた。
 雲雀が高く上っている。若葉が風にまるでほどけて行くようであった。僕は眠《ねむ》たくなって、ゴロリと横になると、帽子を顔にかぶ
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