のように呆《ぼ》んやりみひらいている僕の肩を叩《たた》いて車掌《しゃしょう》が気味悪そうに云った。
今までに、青年らしい楽しみも希望も随分考えて来たが、僕の青春には、ただ「浮世には思い出もあらず」と云う言葉だけが残っただけだ。
彼女は灯もつけずに庭にいた。
「みみずを掘《ほ》っているの……」
手には空鑵《あきかん》をさげて、黒い土をほじくっていた。みみずは百|匁《もんめ》掘れば、いくら[#「いくら」に傍点]になるとか、またどこかで聞いて来たのだろう。
僕は部屋へ這入って電気をつけた。机の上には、何かまた彼女の落書が書いてある。「一、魚の序文。二、魚は食べたし金はなし。三、魚は愛するものに非《あら》ず食するものなり。四、めじまぐろ、鯖《さば》、鰈《かれい》、いしもち、小鯛《こだい》。」
彼女は猫《ねこ》のように魚の好きな女であった。どんな小骨の多い魚でも、身のあるところをけっして逃《のが》さなかった。――僕は字引を金に替えた奴の残りを袂の底に探ってみた。まだ五十銭も残っていた。この金を、どうして楽しませてやったらいいだろう。
「おい、みみずは取れたかい?」
「まだまだ、今朝《けさ》からなンだけど、たった四匹よウ。めめず屋の小父《おじ》さんの話ではねえ、ここは昔|沼《ぬま》だったンだからたくさんめめずが居るって云うンだけど、なかなか居ないわア」
「いくらになるンだい?」
「十八銭よオ……」
「おい、十日で十八銭じゃないのかい?」
「着物縫うより、こちらがよっぽどいいわ。土の匂いッてちょっといいわよ。……待っていらっしゃい。今手を洗って行くから……」
彼女が手を洗って来ると、僕は茶ぶ台の上に五拾銭玉一ツと五銭玉一ツを並べた。
「まア! お腹|空《す》いてンだからあんまりおどかさないでよ」
そんでも嬉《うれ》しそうであった。彼女は急にせわしそうに、台所に立って行くと、馬穴《バケツ》をさげて井戸端《いどばた》へ水を汲《く》みに出た。茶ぶ台に置かれた空鑵の中には、四匹のみみずが、青く伸《の》びたり紅く縮まったりしている。
夜。
雨が降りだしたのか、窓の外の桐の葉がザワザワ鳴っている。彼女は机に凭《もた》れて何か書いている。
「そいでね、その二ノ宮ッて家は、まるで壁ばっかりなんだよ。君だったら何と云うかなア、庭ときたら手入れは行きとどいているが、まるで廃園《は
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