いえん》さ、君だったら大根植えるといいと云い出すかも知れないね。だが、あんな壁ばっかりじゃアやりきれないよ。空一ツ満足に見えないンだからねえ暗くて……」
「空の見える気持ちが、そンな人達、誰かに覗かれるようでこわいンでしょうねえ」
「でも、なかなか堂々たる邸だよ、大きい樹に囲まれていて、ピアノの音がしていて……」
「ちっともうらやましかないわ」
「うん、ちっともうらやましかないさ」
彼女はもう平然と僕の兵児帯を締めている。初めの頃のおどおどした気持ちも抜けてもうこの頃では、まるで十四五の娘《むすめ》のように、朗らかであった。
「だけど、俺達は乞食《こじき》のようにお椀《わん》を一生持って暮らさなきゃならない理由ッてないよ」
「それやアそうよ。だけど、ねえ、捨石になれる悟《さと》りでも開かン事には、やっぱり、一生お椀の口かも知れないもの」
雨が時々、障子に汐《しお》のようにしぶいて来る。僕は墓場の言葉を憶い出していた。
彼女は、子供のように、河のほとりで唄うような気持ちだと云うあの淋し気な声で、「一、魚の序文。二、魚は食べたし金は無し。三、魚は愛するものに非ず食するものなり……」と音読するのであった。
[#地から1字上げ](昭和八年四月)
底本:「ちくま日本文学全集 林芙美子」筑摩書房
1992(平成4)年12月18日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学大系69」筑摩書房
1969(昭和44)年
入力:土屋隆
校正:林幸雄
2006年9月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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