た。夫人は、二人の看護婦に寄り添われて、厚いむらさきの蒲団のうえに坐っていた。
「山田は、信州の生れだそうですね」
僕は一も二もなく参ってしまった。夫人も信州の生れだと云うので、ここでは、信州の山の話が出た。
「今日は部屋をずっと見て廻《まわ》って、なるべく早く来るようにして下さい」
給料の話と、妻の話を持ち出そうとすると、もう看護婦が会釈するのだ。――お伽話《とぎばなし》にだってこの様な大名生活はないだろう。彼女に見せてやったなら、どんな事を云うであろうか。老女中が次々と五十|幾《いく》ツかの部屋を見せてくれた。十九歳を頭《かしら》に令嬢《れいじょう》が四人、女中が十八人、事務員が二人の全く女ばかりの大世帯で、男と云えば風呂|焚《た》きの爺《じい》さんと末の坊《ぼっ》ちゃんだけだと云う事であった。
この二ノ宮と云うのは、天下の二ノ宮と云われた生糸《きいと》商人で、一時は全く旭日《きょくじつ》の勢いにあったと云う一家だと云う事だ。さすがに、風格も堂々としていて、五十幾ツかの部屋を見終った時の僕の頭の中には、ただ壁だけがぐるぐる廻っていた。
老女中は、僕を玄関へ送り出すと、「お荷物を早くお送りなさいまし、女手が多いのですから片づけといて上げます」僕は僕の部屋になるのだと云う書生部屋もさっき見た。高窓が一ツに壁上には、判読するに困難な字が掛けてあった。あの洗い流したように古びた畳の色など、僕にはもう縁《えん》なき衆生《しゅじょう》であるかも知れぬ。
「前にいた書生さんは、この高窓からばかりカチカチカカチなんて拍子木《ひょうしぎ》を打つんでしょう、そりゃアおかしい人でしたよ。自分が恐《こわ》いんで近所の野良犬《のらいぬ》を五六匹も集めたりしていたンですの……」
僕は、無意味な壁ばかりを見て歩いた事をひどく後悔《こうかい》した。人の住まっていない無数の壁を警護するために、彼女と離れて別れてまで暮《くら》す心はない。では、どうして食って行くのだ。「浮世には思い出もあらず」また墓標の裏の言葉が胸を突《つ》いて出た。――我々置き去りにされたインテリはいったいどうすればいいのだ。人生はまるで今日見たあの壁の中みたいじゃないか、あッちを向いても、こっちを向いても、壁々、壁だ、壁なのだ。
いったいどうしろと云うのだ。
「もしもし終点でございますよ」眼だけが空洞《くうどう》
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