女は犬のように満ちたりた眼をしている。
「今日はねえ、帰りにまた平井さんのところへ寄ったの、あなた夜番ッて職業厭かしら」
「夜番?」
「ええ夜番なのよ」
「夜番ッて?」
「とてもお金持ちのお邸《やしき》ですって、女ばかりなンで書生さんが欲しいンだとかで、平井さんが、三吉君どうだろうッて云うのよ。食べて三十円ッて、ちょっといいと思ったから……」
「二人で行けるのかい?」
「そこまで聞かなかったわ、……本当ねえ」
「何だ、それじゃアつまらないじゃないか、……俺は何だってするよ。もうこうなったら、机の前にタンザしている気持ちなンかないンだから」
彼女は口いっぱい飯を頬ばったまま引っこみのつかないような顔で、大粒な涙をこぼし始めた。実際、広い屋根屋根の下にはこうした人生の片言があっちにもこっちにもあるのだろう。
「そいで、三十円くれると云うのは本当の事なのかね?」
飯を頬ばっているので、彼女はコックリをしてみせる。
僕は字引を街で金に替《か》えて、平井の紹介状《しょうかいじょう》を懐《ふところ》に、その郊外の邸へ行ってみた。武者窓でもつけたら、侍《さむらい》が出て来そうな、古風な土塀《どべい》をめぐらした大邸宅で、邸を囲んで爽々《さつさつ》たる大樹が繁《しげ》っていた。ピアノの音が流れて来る。もうそれだけでも、変に臆病《おくびょう》になってしまって僕は何度か大名風《だいみょうふう》な門前を行ったり来たりしたが、ふとまた「浮世には思い出もあらず」の言葉に、急に血潮が熱くなるような思いで、僕は足音高く案内を乞《こ》うた。
出て来たのは十六七ばかりの桃割れの少女であったが変につんつるてんな着物を着ている。僕はまず応接間に通され、ここで約一時間位も待たされた。――ユトリオ張りの油絵が一枚、なげしに朱《あか》い槍《やり》一本、六角型の窓の向うには、水の止まっている大きな噴水《ふんすい》があった。その噴水のまわりには、薊《あざみ》の花が叢《くさむら》のように咲いていた。
「素敵だなア!」何となく感歎《かんたん》してしまえる静寂《せいじゃく》であった。やがて、僕は未亡人だと云うこの家の主の部屋へ案内されたのだが、いったい女中が何人居るのか僕はまるでリレーのように次から次の女中へと渡《わた》されて、夫人の部屋の外まで来た時は、逃《に》げ出したいほど、何かもやもやした気味わるさを感じ
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