で亡くなった、この新墓の主の墓標の言葉に、僕は全く口笛《くちぶえ》さえ吹きたくなったほど気持ちが軽くなった。
「浮世には思い出もあらず」何とすがすがしく云い放ったものであろう。灰色の墓原の向うにこの僕の心に合わせて、誰か口笛を吹いて通る者がある。
帽子の釘《くぎ》に一緒にぶらさげた電気に灯がはいると、彼女は風呂敷を米で針坊主《はりぼうず》のようにふくらまして帰って来た。
「五拾銭|貰《もら》って来たのよ。ちぬ子さんたらあんまり上手《じょうず》じゃないわねえッて云うの」
「あいツ、お前の縫った着物を着たら体が腫《は》れあがって来るだろうさ、――ところで、今日《きょう》墓の中でいい言葉をみつけて来たよ」
「どんな言葉?」
「いいや、別にあらたまるほどじゃないが、明日、またどッかへ花を持って行くところはないかね。グラジオラスやチウリップがたくさんあったよ、その墓の主なら咎めだてはしないだろう――『浮世には思い出もあらず』と書いてあったのさ」
「浮世には思い出もあらず[#「浮世には思い出もあらず」に傍点]、変に気取った奴ね、私だったら『うらめしい』と書いてもらうわ」
「ええッ、うらめしい[#「うらめしい」に傍点]か、なるほどねえ」
こましゃくれた奴だ。彼女は米さえ買って来ると唱歌が上手になる。一坪の厨《くりや》は活気を呈《てい》して鰯《いわし》を焼く匂いが僕の生唾《なまつば》を誘《さそ》った。
たった五十銭の収入で驚《おどろ》くべき生活のヒヤクだ。僕もあわただしく机へ向った。今は黄いろくなって古びたりと云えど、プウシュキンの訳に手を入れてみるべきだ。彼女は十日かかって五十銭の収入を得て来ている。そうして彼女の唱歌は実に可憐《かれん》だ。――僕は膝《ひざ》を正して字引を繰《く》ったが、字引の冷たさは、僕をまた白々しいものにする。字引を売って、魚に変えた方がましだ。鰯の匂いは、懐《なつ》かしい匂いであった。
「さア食べましょう。実に久し振りに、実に実に……私アーメンと云いたくなるわ。あなたのよく云う食べるだけなのかい人間って奴はッて云うのを止めましょう。さあいらっしゃいよ」
玄関《げんかん》の食卓には、墓場から盗って来たのであろう桃《もも》色の芍薬《しゃくやく》が一輪コップに差してあった。二人は夢中《むちゅう》で食べた。実に美しくつつましい食慾《しょくよく》である。彼
前へ
次へ
全13ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング