ううん……新墓へ行って盗《と》って来ちゃったのよ。私、もったいないと思うたわよ。だって随分あるの、お金持ちのお墓なんて十円位も花束があがっててよ……」
「で、お土産に利用するのかい、仏も浮《うか》べないねえ……」
「だって美しい花だものほしいわ」
 彼女は、その花束を如何にも花屋から買ったかのように紙に包んで、風呂敷をかかえ日向《ひなた》の道へ小犬のように出て行った。
 僕は起きあがって窓ッぷちへ腰を掛けて墓の道を眺めた。墓を囲んだ杉《すぎ》や榎《えのき》が燃えるような芽を出している。僕にはなぜか苦しすぎる風景であった。夜が待ち遠しい位だ。早く夜になってくれるといい。部屋の中に空箱《あきばこ》のように風が沁みて行ったが、生きている喜びも何も感じられないほど、すべてが貧弱なもので、二|畳《じょう》と八畳きりの座敷の中には、この僕一人が道具らしい存在だ。歪《ゆが》んだ机の上には、訳しかけのプウシュキンの射的の草稿《そうこう》が黄いろくなったままだが、もうこんなものも売りに歩く自信もなくなりかけた。僕はふと誰かの話を憶い出した。バルザックのプチイ・ブルジョアを半年かけて訳して、六百枚あまりが百円にもならなかったと云う侘しさを。半年の情熱をかたむけて訳したその人の気持ちはこれまた侘しすぎる以上だろう。
 ――僕は一二年前の大学生活の中に、かつて一度も生活の不安を感じた事はなかったはずだったが、いや、生活の事を考えるのが恐ろしかったのかも知れない、薄暗い珈琲《コーヒー》店の片隅で考える事は愚《ぐ》にもつかない外遊の空想などばかりであった。

 僕はまた、壁の帽子をかぶって、彼女の厭がるステッキを持った。墓の中の散歩をこころみるべく、僕もまた彼女の去った墓の道へ出てみた。熱ばんでたまらないと云った風に、雀《すずめ》達が、ころころ地べたを転がるように飛んでいる。なるほど、彼女が云ったように、新墓には草のように花がそなえてあった。もう萎《な》えかけたのなどもある。三十歳、十五歳、十九歳、皆、若い仏達であった。その中で一ツ僕の眼をとらえた紀意大善姉と書いてある墓標があった。墓標の裏には、レニエエか何かの「浮世《うきよ》には思い出もあらず」と記してあったが、この言葉は今の僕の心をひどく温めてくれるものがあった。二十八歳としてあるが、どんな女性だったのだろうか……僕と同じ年齢《ねんれい》
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