ありすぎる。――朝眼覚めて口を洗い、ゴロリと横になって、人を焼く煙を眺《なが》めている僕のかたわらに、おぼつかない手付でもって縫いものをしている彼女がいる。髪の毛には網《あみ》のように白い埃が溜《たま》っていて、それを眼にした僕の口の中には、何か火の玉をくくんだように切ないものがあった。
 彼女はきっと「私、いい縫物屋を知っていますから頼《たの》んであげましょう」とでも云って、この着物の仕事を森本ちぬ子から取って来たのに違いない。
「ねえ、この間平井さんの奥《おく》さんに会ったら、早くちぬ子さんに着物を返した方がいいわ、縫物屋へ持って行くッて云って、菊さんは質屋へ置いてしまって、とても困ってるッて云いふらしてるのよ、なんて教えて下《くだ》すッたんだけど、まさか、こんな洗い※[#「日+麗」、第4水準2−14−21]《ざら》した着物五拾銭も借さないでしょうのに、私とても淋《さび》しくなってしまった」
 僕は沈黙《だま》っていた。彼女がその着物をちぬ子の家から持って来てもはや十日あまりにもなるのだが、一心になって毎日こつこつ縫っている彼女に向って、何を僕が咎《とが》めだてする事が出来るだろう。
「でも、もうこれで出来上ったのだから、持って行こう……」
 彼女は、出来上った着物を畳《たた》んで座蒲団《ざぶとん》の下に敷《し》いた。
「出来上ったンなら早く持っておいで、友情のない奴の品物なンぞ見るのも不愉快《ふゆかい》だ」
 僕は一々彼女に向ってああしては悪い、こうしては悪いなどと云う事に草臥《くたび》れ始め、自分のキリキリした神経もこの頃《ごろ》では少しばかり持てあまし気味でいるのだ。
 履歴書も四五十通以上は書いたろう、あらゆる友人を頼《たよ》って迷惑《めいわく》な手紙も随分書いたが、頼んだ友人達自身が何等《なんら》の職もなく弱っている者が多かった。
 彼女は着物を風呂敷に包むと、悪戯《いたずら》ッ子らしく眼をクルクルさせて僕の両手を引っぱり、台所へ連れて行くのだ。「ねえ、私、ちぬ子さんにいいお土産《みやげ》を持って行こうと思うのよ」そう云って彼女が台所の流し場を指差したのを見ると、西洋種の紅い豆《まめ》の花や、束《たば》の大きい矢車草がぞっぷりと水につけられていた。
「おお綺麗《きれい》だなア……」
「綺麗でしょう……」
「どうしたンだい、こんなゼイタクな花束を?」

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