ないかな。不図《ふと》そんなことを考えて硝子屋の前に立ったが、どの正札も高い。やけくそで、ぴょんぴょんと片脚で溝を飛んで煙草屋へ這入《はい》ると、
「おおい啓ちゃん!」
と、呼ぶ者があった。
例の癖で、白目をぎょろりとさせて振り返ると、猫背の叔父さんが立っている。
「母さんと来たのかい?」
「ああさっき」
「何、煙草かい?」
「うん」
勘三は如何にも草疲《くたび》れきったように、埃のかぶった頭髪をかきあげて、
「いいお天気だがなア」
とつぶやく。思わず啓吉は空を見上げたが、晴々しい黄昏《たそがれ》で、点《つ》き初めた町の灯が水で濯《すす》いだように鮮かであった。
「煙草一本おくれよ」
「ああ」
小さい啓吉が煙草を差し出すと、勘三は丁寧に銀紙を破って、新しい煙草に火をつけた。
「叔父さん歩いて来たの?」
「ああ歩いて帰ったンだよ」
「遠いンだろう? 東京駅の方へ行ったの?」
「うん、色んなところへ行ったさ」
「面白かった?」
「面白かった? か、面白いもンか、どこも大入満員でさ、叔父さんの這入ってゆく余地は一寸もないンだよ」
「ふん。割引まで待てば空くンだろう?」
「腹がへって
前へ
次へ
全75ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング