んのお家から、何の御用でいらっしゃったの?」
 と先生が、啓吉の襯衣の釦をはめてやりながら訊いた。
「…………」
 啓吉は黙っていた。優しい先生に、自分の家庭の話をする事は面倒でもあったし、可愛らしい饗庭芳子がくりくりした目をして微笑しているので、何と返事をしていいか判らなかった。
「どなたか御病気?」
「いいえ――」
「級長さんは随分おとなしいのね」
 そういって先生が立ちあがると啓吉は、またこの先生にも嫌われてしまったような、淋しい気持ちになりながら、自分の机へ行ってぽつんと腰を掛けた。饗庭芳子は先生の袴へもつれるようにくっつきながら先生と一緒に廊下へ出て行ってしまったが、明らかに、啓吉は、自分の孤独さを感じるのであった。運動場では、マリのように子供達がはずんでいる。
 啓吉は落ちつかなかった。――啓吉は正午の時間になると、先生へ黙って、ランドセールを背負ったまま裏門から外へ出て行った。早く帰って、どんなにしてでも九州とかいう、遠い土地へ連れて行って貰おうと思ったのだ。もう心の中では「母アさん、母アさん」と泣き声をあげていた。
 檜葉《ひば》の垣根に添って這入って行くと、家の中が森
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