、ストルムの詩をうたった。妻にはない若い女の匂いだ。伸一郎はぽかんとして父親の容子を見ている。
「貴方ン! 啓ちゃん帰って来ましたよッ」
 急《せ》わしく上って来そうな寛子の声だ。勘三は、矢庭にハンドバッグを懐へしまった。何時も原稿の束をしまいつけているので、ふくれた懐も目立たない。
「へえ! 昨夜はどこへ泊ったンだ? 新聞社のところから急にいなくなったじゃないかッ」
 勘三は目玉をパチパチさせて階下へ降りて来るなり、啓吉に合図をする。で、啓吉は、叔父と別れてからの話をしなければならない。
「へえ、随分親切な人もあるもンね。尺八を吹く人なのかい?」
「…………」
「他人《ひと》様だってそンな親切なお方があるンだのに、手前エはどうだ。血のつながった甥じゃアないかよ。ええ? それをさア、姉き[#「姉き」に傍点]へ意地を張って、方々へ預けようとするから、こんな間違いがおきるンだ」
「そンなことはどうでもいいわ……何も、啓坊がいなくなったからって、酒を呑んでへべれけになって帰る事はないでしょう……あとで、どうなのか、啓ちゃんに聞いてみますよ、怪しいもンだからねえ」
「余計なことを訊かなくてもい
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