。
「はア、こりゃ、叔父さんみたいな人が落としたンだよ……」
沢崎澄子といえばちょくちょく聞いたことのある名前だ――。勘三は、ハトロンの封筒から拾円札を引っぱり出したが、不図あきらめたように、その拾円札をハトロンの封筒の中へしまいこんで、
「ううん」
と呻ってしまった。
「ねえ、それ拾ったって僕のもんじゃないンだろう?」
「そうさ、この女のひとだって困ってるだろうから、届けてあげなくちゃアねえ……」
名刺の裏を見ると、渋谷区|幡《はた》ヶ谷本町としてあった。勘三は、不図、寛子と所帯を持った頃の三四年前の幡ヶ谷のアパートの事を思いだすのだ。芝居裏のような歪んだ梯子段《はしごだん》をあがって、とっつきの三畳の間を月五円で借りていたが、その頃は学校の出たてでまだ貧乏しても希望があったが、子供が出来て六年にもなり、自分の書くものが一銭にもならないとなると、海の真中へ乗りだしてしまったような茫然とした気持ちで、どうにも方法がつかない。
「まま乗り出したこっちゃい! ええッ、どうにかなりますわい」
「女のひとンところへ届けに行くの?」
「ああ届けてやることにしよう。まア、待てよ、叔母さんのと
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