までハモウニカの汽車を走らせてゐると、戸外で、
「今晩 今晩 今晩は‥‥」
といふ声がします。
兄さんの健ちやんはびつくりした顔をして「誰かね。」と大きい声で返事をしました。すると、表の硝子戸を開けて、見たこともない一人の男のひとが這入つて来て、
「腹が痛いのだが薬を売つてくれないかね。」といひました。
健ちやんは、煤けた天井から薬袋を降して見知らぬ男のひとのところへ持つてゆきました。男のひとは大変疲れてゐると見えて、土間へ這入つて来ると、すぐ板の間へ腰をかけて「あゝ」と深いためいきをしました。
「誰もゐないのかい?」
とその男は健ちやんに訊きました。健ちやんは泣きそうな顔をして、「うん」と言ひました。雨が強くなつたのでせう、硝子戸がびりびりふるへてゐます。その男のひとは健ちやんから水を一杯もらつて銭を置いて帰りました。帰りしなに乗合自動車はもうないだらうかときゝました。
「九時まであります。」
と健ちやんが応へると、その男のひとは硝子戸を丁寧に閉めて雨の中へ出て行きました。より江は、ざアと云ふ雨の音をきくと、いまのをぢさんは濡れて可愛さうだとおもひ、
「傘を借してあげればい
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング