と、汚れたコップを出して壁ぎはの新しい荷箱の上に置いた。「お前さん、旦那は何してるンだい?」男はさう云つて、鮭を半分手でむしつて、りよの飯の上に差し出した。りよはとまどひしながら、有難く鮭を貰つた。「主人はシベリアにゐるんですけど、まだ、戻つて来ませんので、こンな事でもしなくちや食べてゆけないンですわ」男は吃驚したやうに顔を挙げて、「ほう、旦那はシベリアのどこにゐるンだね?」と訊いた。
バイカルのスウチンと云ふところから、音信があつて、秋がすぎ、また今年の冬をやつと越した。りよは、毎朝眼が覚めて気が滅入ることも習慣になつてしまつてゐる。あまりに距離がありすぎるために、何の実感もないのだけれども、もう、その実感のないと云ふ事にもいまでは慣れて来てゐた。異国の丘と云ふ歌が流行してゐると云ふので、留吉に歌つて貰つたが、その歌を聴いてゐるうちに、りよは侘しくなつて来るのだ。自分の周囲にだけは、まだ、戦争気分が残つてゐるやうに思へた。遠ざかつて行く記憶のもや[#「もや」に傍点]の中に、自分のところだけが、平和な色あひから取り残されてゐるやうなのだ。神様なンてあるものぢやないわ。りよは口癖のやうに云つてゐた。暑い季節には、毎日が焦々と待ちこがれてやりきれなくなり、少しづつその暑熱の気候があせてゆくと、冬の来るのが責められるやうに淋しかつた。人間の辛抱強さにも限度があるとりよは独りで怒つてゐた。シベリアで四度も冬を迎へる隆次のおもかげが、まるで幽霊のやうに段々痩せ細つて考へられて来る。
六年間と云ふもの、隆次が出征してからは、りよは飛び立つ思ひの幸福は一度もなかつた。歳月の速度は、りよの生活の外側で、何の感興もなく流れてゐるのだ。いまでは、誰も戦争の事は云はなくなり、たまに、良人はまだシベリアですと人に云ふと、その人は、まるで、使ひに行つたものが戻らないやうな気軽な同情しかよせてはくれない。シベリアと云ふところが、どんなところかは判らないけれども、りよには広い雪の沙漠のやうなところにしか空想出来ないのだ。
「バイカルのそばのスウチンと云ふところださうですけど、まだ戻れないンです……」「自分もシベリアからの引揚げでね、黒竜江に近いムルチで、二年ほどばつさいをやらされたンだがね。――人間、何でも運不運でね、旦那もそりやア大変だが、待つてるお前さんも大変な事だなア……」鉢巻を取つ
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