て、その男は、鉢巻の手拭で湯呑みとコップを拭いて煮えたぎる茶をついだ。「まア! 貴方も復員のかたなンですか? でも、よく丈夫で、戻つて来られましたンですね?」「どうやら死にもせンで、日本へ戻れたと云ふもンさ……」りよは弁当箱をしまひながら、つくづくと男の顔を見た。平凡の男のやうに感じられるだけに、りよは気安く話が出来、居心地がよかつた。「子供さんあるのかね?」「えゝ、八ツになる男の子がありますけれど、いま、転入とか、学校の事でごたついてをりますンですよ。配給の手続きが遅れてゐるものですから、その手続きからしなくちやならないし、子供は学校へも上れない始末で、全く、商売で忙しいところへ、毎日手続きの事で区役所へまはつてへとへとなンです」
 男はコップを取つて、熱い茶をふうふう吹きながら飲んでゐる。「美味い茶だね」「あら、さうですか? もつといゝ茶があるンですけど、これは二番茶で、原価は一貫で八百円位なンです。――でも、案外美味いつてお客様はおつしやいますわ」りよも湯呑みを両の手に取つて熱い茶を吹きながら飲んだ。
 いつか風向きが変つて、西風が強く吹きつけて、トタン屋根をびよびよ鳴らしてゐた。りよは外へ出るのが心細い気がして、少しでも火のそばにゐたい気がした。「二百匁ほど買つとくかな……」男はさう云つて、仕事着のポケットから三百円出した。「あら、お買ひにならなくても、私、二百匁位なら差しあげますわ」りよは、急いで百匁袋を二本出して、荷箱の上へ乗せた。「なアに、商売は商売だね。ただ貰ふつてわけにやゆかないよ。――また、このあたりに来たら寄つて行きなさい」「えゝ、もう、そりやア寄らせていたゞきますとも……こゝにお住ひなンぢやございませンのでせう?」りよは狭い小舎の中を見まはした。男は弁当箱をしまふと、木裂《こつぱ》の細かくさゝけたところをはがして、それを妻楊枝にしながら、「こゝに住んでるンだよ。こゝの鉄材の番人兼運送係りつて仕事で、飯だけ近所の姉のところから運んで貰つてるンさ……」さう云つて、男は神棚の下の扉を開けた。押入れのやうなところにベッドが出来てゐて、板壁に山田五十鈴のヱハガキが鋲でとめてあつた。「まア! 便利に出来てゐますのね? 気楽でせうね……」りよは、この男はいくつ位だらうと思つた。
 その日からりよは四ツ木へ商売に来るやうになり、この鉄材置場の小舎へ寄ることに
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング