下町
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蹲踞《しやが》んで

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)やかん[#「やかん」に傍点]
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 風が冷いので、りよは陽の当たる側を選んで歩いた。なるべく小さい家を目的にして歩く。昼頃だつたので、一杯の茶にありつける家を探した。軒づたひに、工事場のやうな板塀を曲つて、銹びた鉄材の積み重ねてある奥をのぞくと、硝子戸の中で、ぱちぱちと火の弾ぜてゐる小舎があつた。後から自転車で来た男が、片足を地へつけて「葛飾の区役所はどこだね?」と訊いた。りよは知らなかつたので、「私も、通りすがりのもので知りませんね」と云ふと、自転車の男は小舎の方へ行つて、大きい声で区役所はどこだらうと聞いてゐる。硝子戸を開けて、鉢巻をした職人風な男が顔を出した。「四ツ木の通りへ出て、新道をまつすぐ駅の方へ行けば判るよ」と教へた。りよは、鉢巻の男の様子が、人柄のいゝ人物のやうに思へたので、自転車をやりすごしてから、おそるおそるそばへ行つて、「静岡のお茶はいりませんでせうか……」と小さい声で聞いてみた。暗い土間では、七輪に薪を燃やして、鉄棒の渡しをかけた上に大きいやかん[#「やかん」に傍点]が乗つかつてゐた。「お茶?」「はい、静岡のお茶なンですけどねえ……」りよは、微笑しながら、さつさとリュックを降ろしかけた。鉢巻の男は何も云はないで、土間の腰掛に行つた。りよは、勢よく燃える火に、ほんのしばらくでもあたらせて貰ひたかつたので、「随分、歩いたンですけど、とつても寒くて……少し、あたらせて下さいませんでせうか?」とおづおづと云つてみた。「あゝいゝとも、そこンとこ閉めて、あたつて行きな」男は股の中へ小さい腰掛をはさみかけてゐたが、その腰掛をりよの方へやつて、自分はぐらぐらする荷箱の方へ腰をかけた。
 りよはリュックを土間の片隅に降ろして、遠慮さうに蹲踞《しやが》んで、火のそばへ手をかざすと、「その腰掛へかけなよ」男は顎でしやくるやうに云つて、炎の向うにほてつてゐるりよを見た。なりふりかまはないかつかうではあつたが、案外色白い器量のいゝ女であつたので、「お前さん、行商に歩いてゐるのかい?」と訊いた。
 やかん[#「やかん」に傍点]の湯がちいんと鳴り出した。
 煤けた天井に、いやに大きい神棚がとりつけてあつて、青
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