々としたさかき[#「さかき」に傍点]が供へてある。窓の下には黒板がぶらさげてあり、穴だらけのゴム長が一足、壁ぎはに置いてある。「この辺がいゝつて聞いたものですから、今朝早く来たンですけどね、一軒きりしか商売がなくて、もう、帰らうかと思つたンですけど、どこかで弁当でもつかはせて貰つて、と思ひましてね、そンなところを探して歩いてゐたンです……」「弁当はこゝでつかつて行けばいゝさ……商売つてものは、その日の運不運でね、もう少し、家のこんでるところでもまはれば、案外、またいゝ商売もあるかもしンねえよ」男は、歪んだ本箱のやうな棚から、黄いろくべとついた新聞包みを出して鮭の切身を出すと、やかん[#「やかん」に傍点]をおろして鉄棒の渡しへ乗せた。香ばしい匂ひがした。「さア、その腰掛へかけて、ゆつくり弁当をつかつたらどうだね……」りよは立つて、リュックから弁当箱の風呂敷包みを出して、腰をかけた。「何の商売も楽ぢやアねえな、静岡の茶つて云ふのは、百匁いくら位するンだい?」男は手で鮭をひつくり返した。「売りは百二三十円つてとこなンですけど、屑も出ますし、高くしちやア仲々売れませンしね……」「さうさなア、年寄りでもゐる家なら買ふだらうが、若いもンの家ぢやあ、仲々骨だらう」りよは弁当を開いた。まつくろい麦飯に、頬差しの焼いたのが二尾と、味噌漬がはいつてゐる。「何かえ、お前さんの家はどこだえ?」「下谷の稲荷町なンですけどね、まだ東京へ来ましたばかりで、西も東も判らないンです」「ほう、間借りでもしてるンかい?」「いゝえ、一寸、身をよせてるところなンです……」男は汚れた毛糸の袋から、大きいアルマイトの弁当箱を出して蓋をとつた。薯飯がぎしつと押しつぶれる程詰めこんであつた。蓋の上に、焼けた鮭を手でつかんで入れると、またやかん[#「やかん」に傍点]をかけて、小さい木裂《こつぱ》を七輪につつこんだ。りよは、弁当の食べさしを腰掛に置いて、リュックから商売物の茶袋を引き出して、鼻紙に少し取りわけると、「これ、やかん[#「やかん」に傍点]に入れてかまひませんか?」と、尋ねた。男は恐縮したやうに手を振つて、「高いものをいゝのかね」と、にこつと笑つた。大きい皓い歯が若々しく見えた。りよはやかん[#「やかん」に傍点]の蓋をつまみあげて、茶をさつと湯気の中へ放つた。
 ぐらぐらと茶は煮えたつて来た。男は棚から湯呑み
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