だとさ……」りよは歩きながら泣いた。涙が噴いて眼が痛くなるほど泣いた。
りよと留吉が浅草へ出たのは二時頃であつた。駒形の橋の見える方へ出て、河添ひに白鬚の方へ歩いた。こゝが隅田川と云ふのだらうと、りよは青黒い海のやうな水を見て歩いた。――もしもの事があつて、子供が出来たら困ると云つたら、鶴石はどんな責任でも負ふから心配しないでくれと云つて、あの朝別れる時に、鶴石はりよに、毎月二千円づつ位は、自分にもめんだうをみせてくれと云つた。鉛筆をなめながら、小さい帳面にりよの稲荷町の住所を書きとめてゐた。別れしなに、鶴石は田原町の洋品屋で留吉にネーム入りの野球帽子を買つてくれたりした。雨のあがつたぬかるみの電車通りを、やつとミルクホールを探しあてて三人で一本づつ牛乳を註文して飲んだ。
りよは河風に吹かれながらぶらぶらと河ぶちを歩きながら思ひ出してゐるのだ。白鬚のあたりに水鳥が淡く群れ立つてゐた。青黒い流れの上を、様々な荷船が往来してゐた。りよはシベリアの良人のおもかげよりも、色濃く鶴石のおもかげの方が、はつきりと浮んで来る。「お母ちやん、漫画買つてくれよ」「あとで買つてやるよ」「さつき、いつぱい本のある店の前通つたね……」「さうかい」「見なかつた?」りよはまた後へ引きかへした。どこを歩いていゝのかわけが判らない。二度とあゝした男にめぐりあふ事はあるまいと思へた。「お母ちやん、何か食べようよ」りよは次から次とねだつて来る留吉が急に癪にさはつて来る。白い野球帽子の赤いネームのがかはいかつた。どこへ行くあて[#「あて」に傍点]もなかつた。りよは、河ぶちのしもたや風なバラックの家々を眺めて、家のある人達が羨ましかつた。二階に蒲団を干してあるのが眼について、りよはその家の格子を開けた。「静岡のお茶でございますけど、香りのいゝお茶、如何でございますか?」と、愛嬌のいゝ声で呼んだ。返事がないので、もう一度りよが呼ぶと、正面の梯子段の上から、「いらないよツ」とつつけんどんな若い女の声がした。りよはまたその隣りの家の硝子戸を開ける。「静岡のお茶でございますが……」「はい、いりませんよオ」玄関わきの部屋から男の声で断わられた。りよは一軒々々根気よく玄関に立つたが、一軒もりよに荷をおろせと云ふ家はなかつた。留吉はぐづりながらりよの後から歩いて来る。淋しみをまぎらすために、りよは誰も買つてくれなく
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