ても、一軒づつ戸口に立つのが面白かつた。乞食よりはましだと思つた。二貫目あまりのリュックは相当肩にしびれて来る。りよはリュックのベルトのあたる肩のところへ、手拭を一筋づつあててゐた。
翌る日、りよは、留吉を家に置いて、一人で四ツ木へ出掛けた。子供を連れてゐないせゐかしみじみと独りで鶴石の事を思ふ自由があつた。板塀を曲ると、思ひがけなく小舎の中で火が弾ぜてゐる。りよは、最初の日のことがなつかしくリュックをずりあげながら硝子戸に近よつて行つた。はつぴ[#「はつぴ」に傍点]を着た年を取つた男が七輪に薪を燃やしてゐた。いぶつた煙がもうもうと小さい窓から噴いてゐた。「何だね?」その男が、煙にむせながらこつちをむいた。
「お茶を売りに来てたもンです……」「あゝお茶はまだ上等なのが沢山あるからいらねえよ……」りよは硝子戸へ手をかけてゐたのをやめて、すつと小舎から離れた。あの小舎の中へ這入つてみたところでどうにもなるものではないのだ。あの老人に聞いて、鶴石の姉の家を尋ねて、せめて線香の一本でもそなへて来たいとも考へないではなかつたのだけれども、りよはそれもあきらめてしまつた。どうなるものでもないのだ。いまは、何も彼もものうい気がした。何の聯想からか、りよは、鶴石の子供をもしも、みごもる[#「みごもる」に傍点]やうな事があつたら、生きてはゐられないやうな気がして来た。シベリアから何時かは良人は戻つて来てくれるだらうけれども、もしもの事があつたら死ぬより仕方がないやうにも考へられて来る。――だが、珍しく四囲は明るい陽射しで、河底の乾いた堤の両側には、燃えるやうな青草が眼に沁みた。りよの良心は案外傷つかなかつた。鶴石を知つた事を悪いと云つた気は少しもなかつた。
行商をしてみて、茶が売れなかつたら清水へ帰るつもりで、上京して来たのだけれども、りよは、商売があつても、なくても東京がいゝと思つたし、のたれ死しても東京の方がいまはいゝのだ。
りよは堤の青草の上に腰を降ろした。眼の下の、コンクリートのかけら[#「かけら」に傍点]のそばに、仔猫の死骸が向うむきに捨ててあつた。りよはすぐ立つて肩の荷をゆすぶりあげて駅の方へ歩いた。ふつと横路地をはいると、玄関の硝子格子に、板の打ちつけてある貧しげな家へ声をかけた。「静岡のお茶はいりませんでせうか?」「さうね、いくら? 高いのでせう?」りよが格子を
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