はあまり食欲はなかつた。船のなかではコヽアを註文したきりである。
 下船の支度をしてデッキに出ると、案外早く小さいはしけ[#「はしけ」に傍点]が迎へに出てゐた。照國丸は一週間さきでなければこゝへはやつて來ないのだ。あとは、三百トンくらゐの便船しかないと聞いた。はしけ[#「はしけ」に傍点]に乘りうつると、はしけ[#「はしけ」に傍点]は二十人くらゐの下船のものたちでいつぱいになつた。荷物も人もはしけ[#「はしけ」に傍点]の渡し賃を取られた。三人の船頭が櫓をこいでくれた。安房の港は大きな川の入江にあつて、正面の川の上に素晴しく巨きい吊橋が見えた。なぎさに近づくにつれ、岩礁が點々と波間に見えた。海水は底を透かして澄みわたり、みどり色の海がある。はしけ[#「はしけ」に傍点]はなかなか速くは進まなかつた。川の入江に、景山丸と言ふ三四百トンばかりの白い材木船がもやつてゐるきりだつた。寒い雨氣をふくんだ風が吹きつけてゐた。
 やがて、はしけ[#「はしけ」に傍点]は白い砂地へ横づけされた。砂地へ飛び降りて、吊橋へ向つて歩く。吊橋の下を深い淵をなして、上流へ川がくねくねとつゞいてゐた。淵のきはは、こんもり
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