やがて二時間ばかりして、やつと私達は、丘の上のトロッコの乘り場から、機關車のついたトロッコに乘つた。小杉谷まで行くには、どうしても山の中で一泊しなければならないといふので、途中の大忠岳まで行くことにした。私は機關車の運轉臺に乘せて貰つた。機關車は、トロッコを四輛ばかりつけてゐた。山への荷物が載つてゐる。斷崖の狹い道に敷いたレールの上を、ごうごうと機關車は音をたてて登つた。鬱蒼とした山肌は時々、眞紅な煉瓦色をしてゐた。ヘゴと言ふ、大きな羊齒の一種が繁つてゐた。つはぶき、鬼あざみ、山うどが眼につく。右手の川底の安房の町がだんだん小さく消えてゆく。吊橋も小指ほどに見える。トロッコは荷物と澤山の山行きの人達をのせて、斷崖の上を走つてゐる。雨が降つたりやんだりした。

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一切の強欲の軋轢の苦役から
放免せられてゐる山々
一寸きざみに山へ登りつめる廣い天と地
鋭利な知能を必要とはしない自然
老境にはいつた都會を見捨てゝ
柔い山ふところに登りつめる私
私はその樂しみの飽くことを知らない。

額に山の雨が降りかゝり冷してくれる
山の精力が細かな種子になつて降る
蔓どめ、ひこばえ、山うど、鬼あざみ
私は何でも觸つたものをつかむ。
トロッコで凱旋してゐる旅愁。
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 眺望は昏くなり、山の雨は時雨のやうに降りかゝる。睡魔がおそつて來る。機關車のなかはガソリン臭くなまあたゝかい。

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灰色の雨 しぶく雨
降る雨 たゞ地に降りそゝぐ雨
ひとに酬いる雨の山道

何處からか都會の風説を傳へて降る雨
かつこう[#「かつこう」に傍点]が啼き
羊齒に光る銀色の雨
鋸型の山の彼方に昏く浮ぶ虹
哀しく心ゆすぶる雨。
[#ここで字下げ終わり]

 一時間くらゐして、トロッコはやつと、大忠岳の峠へ着いた。軒のかたむいた山小舍の前でトロッコを降りる。山小舍には誰も住んでゐないのかと思つたら、安房の町で、後のトロッコに乘つた、子供づれの細君が、その山小舍の戸を開けてはいつた。私も雨やどりさせて貰ふ。女の人はまだ若い。すぐ、子供を降して爐に火を焚いてくれた。がらんとした板壁の暗い部屋である。まだ十日ばかり前に宮崎からこゝへ來たばかりで、御主人は石切りを仕事にしてゐる人ださうだ。子供は素朴な木裂に車をつけた玩具で遊んでゐる。
 こゝで、一臺のトロッコを殘して貰つた。徳川さんは、紺のレインハットに、ゲートルに地下足袋のいでたちで、私の乘つてゐた座席へ轉《うつ》り、雨の中を私達の乘つて來た機關車は小板谷へ登つて行つた。小板谷へ行つてみたかつたが、寒さがきびしいと聞き、肺炎にでもなつては災難だと、そのまゝトロッコに乘つて山を降りることにした。疊一枚もない、狹いトロッコに、四人が肩を寄せて乘りあつた。若い山の人がトロッコを上手にあやつつてくれた。斷崖絶壁の山徑を、玉轉しのやうに、トロッコは轟々とすさまじい音をたてて降つて行つた。しのつくやうな雨のなかを、濡れながらトロッコは降つて行く。雨傘を一本持つて來てゐたので、それを差してふはふはと傘の柄につかまつてゐるかたちだつた。
 昏くなつてから宿へ着く。
 ランプの灯の下で火鉢を圍む。風呂をすゝめられるが、熱のためにとりやめ、べとべとした疊に横になる。表の間の税務官吏の部屋は酒宴でも始つたのか賑かである。夕食には、名物の薯燒酎をつけて貰つたが、臭いので誰も飮まなかつた。夜更けになつて、細引を流したやうな雨であつた。雨の中に家ごと沈みこみさうな氣がした。税務官吏は雨の中を、女の迎へで何處かへどやどやと出て行つたが、朝まで戻つて來なかつた。雨の音でなかなか寢つかれない。夜中になつて電氣がついた。しみじみと文明の燈火をみつめる。
 朝、雨は降つてゐなかつたが、夕方のやうに昏い空あひであつた。
 船着場のトラックの運送店で、バスを交渉して貰つた。まだ買つて十日ばかりになる、一度も使つたことのないバスがあると言ふのだ。安房から、尾《を》の間《あひだ》まで四里の道を、バスで行つてみる計畫をたてた。途中の橋が大分くさつてゐたし、道は田をこねかへしたやうだと聞いたが、勇氣を出して、バスで行くことにした。若い運轉手と、運送店の主人が乘り込んでくれた。幸なことに、空もかつと晴れて來た。乘客は私達三人。道が惡いせゐか、私達は彈き豆のやうに、始終シートから放り出されてゐる。途中で、麥生《むぎふ》へ行く、女づれの客を二人ひろつた。紺がすりを着た飮屋の女らしい。金齒をきらきら光らせて喋つてゐた。素足に下駄をはいてゐた。
 左手に見える海は、相當の荒れ模樣で、海原に白波が忙しく走つてゐた。ところどころの麥畑も貧弱である。仁田鑛山の社宅を越して、割合平坦なところをバスは走つたが、すぐまたくさつた橋に
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