屋久島紀行
林芙美子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)西之表《にしのおもて》港へ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)種子島|時堯《ときたか》
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(例)種子島を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り
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鹿兒島で、私たちは、四日も船便を待つた。海上が荒れて、船が出ないとなれば、海を前にしてゐながら、どうすることも出來ない。毎日、ほとんど雨が降つた。鹿兒島は母の郷里ではあつたが、室生さんの詩ではないけれども、よしや異土の乞食とならうとも、古里は遠くにありて、想ふものである。
雨の鹿兒島の町を歩いてみた。スケッチブックを探して歩いた。町の屋根の間から、思ひがけなく、大きくせまつて見える櫻島を美しいと見るだけで、私にとつては、鹿兒島の町はすでに他郷であつた。空襲を受けた鹿兒島の町には、昔を想ひ出すよすが[#「よすが」に傍点]の何ものもない氣がした。宿は九州の縣知事が集まるといふので、一日で追はれて、天文館通りに近い、小さい旅館に變つた。鹿兒島は、私にとつて、心の避難所にはならなかつた。何となく追はれる氣がして、この思ひは、奇異な現象である。
私は早く屋久島へ渡つて行きたかつた。
實際、長く旅をつゞけてゐると、何かに滿たされたい想ひで、その徴候がいちじるしく郷愁をかりたてるものだ。泰然として町を歩いてはゐるが、心の隅々では、すでにこの旅に絶望してしまつてゐることを知つてゐるのだ。一種の旅愁病にとりつかれたのかもしれない。
四日目の朝九時、私達は、照國丸に乘船した。第一棧橋も、果物の市がたつたやうに、船へ乘る人相手の店で賑つてゐる。果物はどの店も、不思議に林檎を賣つてゐるのだ。白く塗つた照國丸は千トンあまりの船で、屋久島通ひとしては最優秀船である。
曇天ではあつたが、航海はおだやかさうであつた。この船では、一等機關士の方の好意で、誰よりも早く乘船する便宜を受けた。デッキに乘り込んだ人達が、どの人も、金魚鉢を手にぶらさげてゐた。種子島や、屋久島には金魚がないのかも知れない。薄陽の射したデッキのベンチに、どの人の手にも、小さい金魚鉢がかゝへられてゐるのは、何となく牧歌的である。
航海はおだやかであつた。
晝の二時頃、種子島へ着くのださうだ。
遠い昔、マルセイユから乘つたはるな丸[#「はるな丸」に傍点]に、照國丸は似てゐた。このまゝ何處へでもいゝから、遠くの國外へ向つて航海して行きたい氣がした。久しぶりに廣い海洋へ出て、私は、鹿兒島での息苦しさから解放された。鉛色の空と海の水路を、ひたすら進むことに沒頭してゐるのは、この船だけである。島影一つ見えない。私はこのまゝ數日を海上で送つてみたいと思つた。ポール・ゴオガンのやうに、船がタヒチへでも向つて行つてゐるやうな、一種の堪へ難い待ち遠しさも、私は屋久島に感じ始めてゐるのだ。
屋久島とはどんなところだらう……
現在の日本では、屋久島は、一番南のはづれの島であり、國境でもある。種子島を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、屋久島が見える頃には、このあたりの環礁も、なまあたゝかい海風に染められてゐるであらう。すばらしい港はないとしても、私は何も文明的なものを望んでゐるわけではないが、南端の島に向つて、神祕なものだけは空想してゐるのはたしかだつた。戰爭の頃、私は、ボルネオや、馬來や、スマトラや、ジャワへ旅したことがあつた、その同じ黒潮の流れに浮いた屋久島に向つて、私はひたすらその島影に心が走り、待ち遠しくもあるのだつた。
二時頃、船は種子島の西之表《にしのおもて》港へ着いた。平べつたい長い島である。木造船が港のなかにごちやごちやともやつてゐた。平凡な島である。こゝで澤山の乘船者が降りて行つた。棧橋にはごちやごちやと澤山の出迎へ人がひしめきあつてゐた。私は暫くデッキに出て、船の上から島の景色を眺めてゐた。
種子島は大隅諸島に屬し、北北東から、南南西にかけて細長く、約七十二キロ、いわゆる九州山系の外帶を構成する第三紀の砂岩、粘板岩、礫岩等からなる小丘がつらなり、臥牛の背に似てゐる。有名な鐵砲傳來の島で、天文年間に漂着して來たポルトガル商船から、種子島|時堯《ときたか》がその製法を受けた。私は織田信長や、豐太閤の小説を書いたばかりだつたので、紀州の根來寺の僧侶や、堺の商人の橘屋又三郎が、この種子島へ來て、鐵砲の製法の傳授を請うた話を思ひ出してゐた。
照國丸は夜の九時まで、この西之表港に停泊してゐるといふので、棧橋が靜かになつたら、種子島に下船してもいゝと思つてゐた。薄陽が射して、海岸沿ひ
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