れに老列児の葉があればと、定子は上海の昔を思ひ出してゐる。
「お母さん、百円ばかり頂戴」
「あんな事いつてるツ、昨日も沢山持つて出て、このごろ、お前さん変だよ‥‥」
「上海のことを思へば、何でもないわ」
「こゝは日本ですよ‥‥」
「お金なくちやア、心細くて出掛けられやしないわ」
「大久保で、少し貰つて来るといいンだよ」
 政子は黙つて母親を睨んだ。
 丁度|肉湯《スープ》が煮えたつて、おあつらへ向きにガスが止まつた。
 政子の方は、それでも支度が出来たのか、すつきりした、黄ろい麻のワンピースを着込んで立つたなり、フランネルで爪を磨いてゐる。
「定子ちやん、あとのことはいいわよ、早く支度なさい」
 政子が優しい声で云つた。

「五郎君の姉さんはいくつ?」
「十八」
「美人かい?」
「きれいさ」
「そりや素敵だ。名前は何ていふの?」
 国宗[#「国宗」は底本では「図宗」]が、七癖の一癖である、戸籍調べを始めてゐる。土産に牛の肝臓を百匁買つて来てくれたので、専造は中野の市場へ、野菜を買ひに行つた。
 七輪の上では、鍋のなかに臓物がことこと煮えてゐる。漸くうまい匂ひがしだした。
「上海はいゝと
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