しいのよ。昔は牛屋の女中だつて、札束を頬つぺたへ投げ返へす心意気があつたつていふぢやないのウ‥‥随分真実つくしてたの、馬鹿らしい話だわねえ」
 百合子は紅くなつた薬指の指輪の跡をいたはりながら、オパルの石を、キリキリと壁でこすつてゐた。
「だつて、恋人同志の間つて、随分喰ひ違ひが多いつていふぢやアない?」
「厭だア、喰ひ違ひなンかと違ふわよ、相手はサッパリと結婚式を挙げちやつたンですものウ、私、よつぽど、その結婚式の晩を、めつちやくちやにしてやりたかつたのだけど、丁度旅費もなかつたし、あんまりキリキリしてたンで、病気になつちやつたのよウ、その気持つてなかつたわ――」
「さうでせうね、――だけど、指輪返へしたつて、何にもなりやアしない? そのひと、きつと、貴女の思ひ出に泣くことがあつてよ。そんな指輪なンか返へす位だつたら、一度出向いて行つた方がサバ/\しやしないかしら?――いつそのこと、そンな指輪なンか綺麗サッパリと売り払つちまつて、遊んでしまつた方が楽かも知れないことよ‥‥」
 サトミは、さう云ひながらも、自分の事を考へてゐた。考へてどうにもならないことであつたが、結局は、「時の流れて行くのを見てゐるより仕方がない」と云ふ事に落ちてしまふのである。
「さうね、この指輪売つて、私、景気のいゝところへ旅行して来てもいゝわ、サトミさんも一緒に来てよウ」
「ホ‥‥‥‥そして一晩中、旅の宿屋で泣かれるンぢや、お供しない方がいゝわ」
「馬鹿ね、痛いこと云ふ奴があるか……」
 二人は少女のやうにクス/\と笑ひあつた。――レコードが同じ唄を何度もうたつてゐる。
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雲の飛ぶよな
今宵のあなた
みれんげもない
別れよう‥‥
[#ここで字下げ終わり]
 直子の好きな唄だ。男達のボックスから、お粒の疳高い声で、
「止めて頂戴よ! そんな陰気な唄ツ、何時までもしつこいのねえ」
 レコードはギリ/\と空廻りして止まる。四隅の女達はパタ/\と埃を払ふやうに立ち上つた。

 4 「この分ぢや随分つもるでせうねえ」
 コンパクトで鼻の頭をパンパンと叩いてゐたせん子は思ひ出したやうに、そつと蓄音機のそばの直子のところへ話しかけて行つた。
「お粒さんどうかしてンのよ、気にかけない方がいゝわ。牧さんのことぢやア、随分ピリピリしてゐるらしいのね。かなひもしないくせに‥‥」
 直子は薄く笑つてゐた。だが笑つてはゐるものゝ、心のうちでは何も彼も佗びしく浅ましく思へてしようがなかつた。――三人の男達は大分酔ひがまはつたらしく、時々直子の方を向いては何かヒソヒソと語りあつてゐる。
「ベッピンぢやないか」
「あれで、子供があるンだつて?」
「まるで娘だねえ、亭主が、へえ‥‥赤い方でやられてるツて口ぢやないのかい」
「未亡人だつて? そりやア可愛さうだね」
 洪水のやうに湧きかへつて、時々思ひ出したやうに男達は声をひそめる。
 お粒が、唇元に下品な皺を寄せて操と笑ひあつてゐた。――その汚い言葉の矢が、ハツシと直子の胸を射て来る。直子は急に胸の中が熱くなると、ゐたたまらなくなつて、足早やに扉を押してまた、雪の降つてゐる外へ出た。
「直子さん! 一寸待つてツ! 直子さんたらツ」
 せん子が、直子を追つて外へ出ると、一時ワアツと笑ひ声が湧きあがつたが、すぐ花火のやうに消えてしまつて、森となつた。さすがに、森となると、何か妙にキマリの悪い思ひがして、操は子供つぽい冗談をいつては座を濁してゐた。

「随分、あのお粒つて女、意地が悪いのねえ、たまンないわ、あンなの‥‥どんなところにも悪型つてゐるものなのね。――ひとつには、あの牧さんをお直さんに取られたつて気持ちなンでせうが、根がゲスなやりくちだから――駄目なこと判りきつてツぢやないの」
 百合子もサトミも、思はずお粒の方を振り返つた。
「あゝ‥‥たまンないわね、皆、同じやうな女がそろつてゐて、意張つたり、意張られたり‥‥」
「牧つてひと、何するひとなの?」
「あら、T大学の先生よウ」
「随分すつきりした人ねえ」
「お粒さん張りしたつて駄目よウ」
 百合子の薬指には、また何時の間にかあのオパルの指輪がはまつてゐた。頬や髪をいらふたびに、オパルの石が、淡くキラキラと光つてゐる。
 泣くだけ泣いてしまつたあとのやうに、戸外はそおッと雪がつもつてゐるきりで、空は晴れてゐた。たゞ舗道の上だけは雪が掃いてあるので、ひどく歩きよかつた。せん子は直子に寄りそつて、何時までも悲しみのをさまらない気持を、お互に感じあつてゐる。
「随分、人を馬鹿にしてるぢやないのツ、貴女がおとなしいからよウ、あンな時、何か云つてやるといゝンだのに‥‥」
 直子は怒りと悲しみに体がガタ/\震へてゐた。
「私、今晩キリで止めようと思つてゐたところなンですの‥‥
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