」
「まア、だつて、そんな事云はないでいらつしやいよ。皆、誰だつてあのひとに味方してる人ないんですもの――自分が随分苦労したつてこと自慢してるけれど、苦労してない証拠よ、まるで意地の悪いお女郎みたいぢやないの、元気をお出しなさいよ、元気を‥‥」
街角を曲ると、暗がりの小さな通りに、屋台や、占の提灯なぞが出てゐた。雪が止んでゐるので、いつそう寒さが耐へるのか、肩なぞはキリ/\と痛い。その癖二人とも羽織のない姿のまゝポク/\とあてもなく歩いてみたかつた。妙に、何も彼もが佗びしい気持ちであつた。
「直子さん、私、占を見て貰ひたくなつたわ。一寸待つてくれるウ」
提灯には「迷へる者来れ」と書いてあつた。――せん子はその「迷へる者来れ」の提灯の横に掌を翳ざして「私には病気の亭主と、七ツになる子供が一人あるンですが」と、云ふ話から始めてゐる。直子は、ヒイヤリとした気持ちで、青ざめて荒れてゐるせん子の掌を眺めた。
その掌は荒れてはゐたが、非常に優さしく、すなほな格構であつた。占者は、歯のない唇をキンチャクのやうに結びながら、
「まづ肉親の縁うすくして、他郷に労するといふ相だな‥‥」
せん子の掌におかれた天眼鏡は、ひどく灰つぽくくもつて、雪に濡れてゐた。
「私、子供と離れてもいゝでせうか?」
「まづ、今年いつぱいは手元を離さぬ方がよろしからう‥‥病難のおそれがある」
「此商売は長く続けていゝでせうか‥‥」
「いや、長続きはよろしくない」
「まア‥‥」
「そちらの方、ひどく剣難が出てゐるが、‥‥見てあげませうかの」
直子は急に肩をあげて、焼鳥の屋台の蔭に犬のやうに隠れた。
5 自動車は快く京浜国道を走つてゐる。
雪晴れの温かい夕方、どこからか汐の香が鼻を打つて来る。――直子はその汐の香だけで満足したかのやうに、さつきから眼を伏してゐる。
「直子さんは、いま何を考へてゐる?」
「私? 何だか子供の頃のこと偶つと思ひ出してゐます」
「子供の頃のこと、直子さんの子供の頃はどんなだつたンだらう‥‥」
「もつと、いゝ生活が、清らかな暮らしが出来るやうに考へてゐましたわ」
「さう‥‥では、いまは清らかぢやない?」
「とても濁つてゐるやうに考へる時がありますわ。おしまひには死にたくなつてしまふし――」
「馬鹿なこといつちやアいけないよ、僕達は真面目にならなくちやアいけないね」
海が見え出した。二人とも沈黙つてしまふ。だが沈黙つてゐると、二人とも何かにせきたてられるやうな気持ちであつた。
二人とも強く愛しあつてゐながら、なぜか悲しいことに、各々の家庭のことを憶つてゐた。――直子は、庭の見えない三畳の部屋で、一人で積木をしてゐる子供の姿や、眼の薄くなつた母親の事を考へてゐた。
「もう五ツにもなつたのだから? 私が田舎へ連れて帰つて、何とか育てるから、お前は良い縁でもあつたら、かたづいておくれ」
孫の相手にヨネンのない母親の言葉が、妙に心に残つてゐた。だが、こんなに愛してゐる男には、妻があるではないか。子供が二人もあつた。
また、男は男で、長い間の家庭の習性を恐ろしく考へてゐた。
「お早うございます」
二人の子供と一緒に顔を洗つて、一緒に食卓について、「行つていらつしやいまし」と云ふ妻の言葉は時計のやうに何年か狂つたことがなかつた。つゝましく清らかな生活でありながら、妙に飄々と心の中に風が吹きこむこの気持ちはどうしたことだらう。
学生時代の思ひ出、外国生活の何年間か、みんな、妻にやましくない生活であつたが、今は、我命以上にも此料理店の給仕女を愛してゐる。
いつかも妻は、自分の傍に来て、子供のことにかこつけて云つたことがあつた。
「もう、お父さんの肌の温さは、坊や、私が寄りつけない程冷たくなりましたのね」
男は偶と心が痛くなつて頭を上げた。
「直子さんしつかりしてゐて下さい」
「えゝ」
頬が涙で冷たかつた。お互ひに家庭のことが通ひすぎたからだ。
「私、あの店を止める積りでをりますの」
「さう、それはいゝ――僕が、直子さんの生活位は引き受けますよ」
「いゝえそンなこと、私、母と子供がありますもの、どんなことをしたつて働かなければ――只、あのお店は、私にはやりきれないンです」
いひやうのないヒッパクした気持ちであつた。雪解けの、公園のやうになつた波止場の前に自動車が止つた。港に碇泊してゐる船の小旗が波の音と一緒に、パタパタきつく風に鳴つてゐる。小さい犬を連れた金髪の少女が白いベンチに凭れて唄をうたつてゐたり、黒ん坊の男が呆んやり立つてゐたり。
「このまゝ二人で外国へでも行くンだといゝナ」
「色ンな美しい国が、この海続きにはあるンでせうね、一人ぽつちだつたら、そンなところへでも行けるンでせうが――この儘、一生、私、こんな暮らし方なンでせう
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