‥‥」

 6 空がカラリと晴れてゐた。
 広告飛行機が雪解けの銀座の舗道に風船を撒いて飛翔してゐる。
 料理店リラの前の、赤く塗りたてた自動電話で、ながいこと、ガチヤガチヤ電話をかけてゐた男があつたが、何時までたつても、思ふやうに電話がかゝらないのか、男は荒々しく扉を蹴つて、まだ軒灯もつけてゐないリラの緑硝子の奥へ這入つて行つた。まだ三時頃なのでゝもあらう、店にはミサヲと百合子と二人きりで新聞を読んでゐた。
「まア早い、岡田さんどうしたンですか?」
「どうしたつて、かうしたつて、大変なンだよ、直さんは昨夜こゝへ出てゐた?」
「いゝえ、昨日は公休を取つたンですよ。どうかしたンですか?――牧さんとどつかい行つちやつたンでせう。ぢやない?」
 ミサヲも百合子も眉も顰めながら、ひどく心にかゝる風であつた。
「今朝、牧の奥さんから電話なンだ。大将昨夜たうとう帰らないンだよ。初めての事なンで奥さん吃驚しちやつたンだらう」
「まア、さうですか! 間違つた事がなきやよござんすがね」
「大丈夫だとようござんすがね」
「さうさ‥‥二人で遊山に行つてたンさと、軽くいく奴なら心配はないンだが、――おとついの晩電話でもかゝつて来た?」
「かゝつて来たやうよ――これはお粒さんの話だけど、牧さんから直さんにかゝつて来たのを間の悪いお粒さんが取り次いで、まことにおふくれなンだから、あんなに当り散らして、果てはぐでんぐでんの大の字でせう‥‥やになつちやつたわ」
「おとつひの晩さア、お粒の奴、例のやうに直さんに大当りなんでせう[#「せう」は底本では「ねう」]‥‥それがまた、とてもゲスぽくつてたまンないのよ。――ところで、岡田さん、あんたも直子さんには参つてたンでせう」
「馬鹿云つてらア‥‥だが、嫌ひな女ぢやないさ――ところでだ二人で一緒にゐるとするならば、どつちも真面目な奴だから心配だナ」
「本当に‥‥」
 三人が三人とも、心配だ心配だと口の先では云つてはゐても、このまゝ二人が遠くへ走つて行つてくれた方が可憐で面白いには面白いと三人三様に考へてもゐた。‥‥そこへ、田舎大尽風に狐の毛皮をふかふかつけたコートを着て、蒼ざめた顔色のお粒が這入つて来た。
「外は温いわ」
「どうだい二日酔ひは?」
「何時の二日酔ひなのさア、毎日酔つぱらつてツから判りませんよ」
 コートをぬぎ、手袋をぬぎ、呆んやりとした眼でお粒は鏡の前に立つた。
「ねえ、随分トゲトゲした顔になつちやつたわ。なまじ恋なぞすまじきものね、岡田さん、私、このごろ、ヘトヘトに自分に疲れつちまつた‥‥」
 岡田はもとより、百合子もサトミも、勝気でゲスなお粒の思ひがけない優しい言葉なので、とまどひしたやうに吃驚してしまつた。だがその驚きは妙にその場の空気をセンチメンタルにしてしまつて、ひどくしんみりとした雰囲気をかもし出してゐた。
「なまじ恋なぞすまじき事か、全くだ、大地震よりこはいからねえ」
 偶と、サトミは蓄音機の前に立つてレコードをめくつた。
[#ここから2字下げ]
雲の飛ぶよな
今宵のあなた
みれんげもない
別れよう‥‥
[#ここで字下げ終わり]
 お粒のきらつた唄ではあつたが、それが此場合ひどくしつくりとして、ジジ‥‥とレコードは廻転してゐる。
「だからさ時の流れを待つばかりね」
 サトミが思ひ出したやうにこんな事を云ふと、お粒は鏡の中からニッコリして「さうでもしなくちや、やりきれないわ」とまるで少女のやうにすなほであつた。‥‥誰が悪いのでもない、みんな宿命なのだ、と、さう百合子もサトミの傍に歩んで行つて、香りの高い支那煙草のミュズに火を点じた。

 7 ――どんなになるかもわからないけれど、まだ生きてはゐます。一度、あなたに会ひたいと思ひながら、本意なく過ぎてゐます。この儘過ぎて行く事が恐い‥‥元気でゐて下さい。――雪がすつかり溶けてしまつた日、せん子は直子からこの様な手紙を受けとつた。子供があると云ふ境遇も似てゐたし、病身な夫を持つてゐたと云ふ事も同じであつた事から、せん子にだけは、直子は何でも云へるのであろう。せん子はせん子で、直子がゐなくなると、妙に、考へる事が多くなつた。
 料理店リラのこのごろは、お粒が静かになつたのと一緒に、ひどく雰囲気がめいつて見えた。

 今日もまた、雀をどりの唄が、女の唇から流れて来ると、地声の大きい操が、サトミや百合子の傍で悲鳴をあげてゐる。
「こんだけの沢山の女給と云ふものが、どンなになつて行くンでせうねえ。――私、昨夜、たうとう、ホラあの男と大森へ行つちやつたのよ、笑ふ? だつて仕方がないンだもの――」
 百合子は眼を円くしてゐた。
 サトミは冷いセルロイドの櫛で、百合子の断髪をくしけづつてゐた手を止めた。
「私生きてゐたくないわ。誰でも相手になつてくれる人があつ
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