て流名とした観化流《かんげりゅう》。

      二

 いま一般に江戸で行われている諸流のごとき、生《なま》やさしいものではない。
 静中にあって心身をしずかにし、まわりのものの変移流転《へんいるてん》の相《すがた》に眼をとめている――が、一度発するが早いか、石を絶《た》ち、山を裂《さ》き、人を砕《くだ》かずんば止《や》まざる底《てい》の剛剣《ごうけん》――それが、喧嘩渡世の茨右近である。
 加うるに、百|剣林立《けんりんりつ》のあいだといえども吾れいかんという、なに、そんな固《かた》ッ苦《くる》しいことは言わないが、とにかく、怖《こわ》いという感情を生れる時に忘れて来た、意地と張りとで固まっている美女、知らずのお絃《げん》という姐御《あねご》がくっついているのだ。
 鬼《おに》に金棒《かなぼう》。似たもの夫婦。
 これなら、どこの喧嘩へ顔を出しても、ひけをとることのないのが当り前で、江戸一円、何の喧嘩物言いと限らず、すこしむずかしいとなると、一切この喧嘩渡世へ持ちこんでくる。そしてまた、この帯屋小路から、茨右近と知らずのお絃がのこのこ[#「のこのこ」に傍点]出て行くが早いか、たいていの出入りが、二人を頼んだ方が勝ちときまっていたもので――さてこそ、商売として立派に立っていくわけ。
 こういう喧嘩渡世。
 観化流の剣豪《けんごう》茨右近も、見たところは、神尾喬之助と同じ背恰好《せかっこう》の、ほっそりした優《やさ》おとこである。それが、意気な姐御《あねご》の知らずのお絃と、こうして町家《まちや》ずまいをしているのだから、帯屋小路の家へ来ていると、紅のついたる火吹き竹……新世帯めかして、水入らずである。
 長火鉢のむこうに、芸者屋に生獲《いけど》りになった兄さんのように、荒い丹前《たんぜん》か何か引っかけて、女みたいな顔でやに[#「やに」に傍点]下っているのが、これぞ、江戸に聞えた喧嘩の専門家、観化流|皆伝《かいでん》の達剣《たっけん》、茨右近だ。
 が、そうは見えない。芝居が休みで、女形《おやま》が自宅《うち》にいるようだ。海苔《のり》か何か焙《あぶ》りながら、一本つけている。
「なあ、お絃、久しく暴風《しけ》つづきだな。きょうあたり、大きな喧嘩《やつ》を持ちこんで来そうな気がするのだが――おれはナ、どこぞに喧嘩のある時は、すぐわかるんだ。腕がピクピクしやあがって、おや、これあ来るぞと思っていると、必ず来る」
 呑気《のんき》なことを言っている。お絃は、お燗《かん》を引き上げた指先を、熱かったのだろう、あわてて耳へ持って行って、貝細工《かいざいく》のような耳朶《みみたぶ》をつまみながら、
「そうかえ。それは便利なものだねえ。それで何かい、きょうはその腕がピクピクしているのかえ」
 笑って訊いた。なるほど、そういうお絃の右の手の甲には、御意見無用、いのち不知《しらず》と、二行に割った文身《ほりもの》が読めるのだった。
「アハハハ」茨右近は、顔に似げなく、豪快な笑い声を揚げて、「それがヨ、今日は朝からピクピクしつづけているんだ。見ねえ、あんまりピクピクするもんで、酒がこぼれて、さかずきが持てねえのだ」
 右近は、酒杯《さかずき》を持った手をわざとふるわせて見せた。黄金《こがね》色の液体が杯《さかずき》のふちからあふれ落ちて、右近の手をつたい、肘《ひじ》から膝《ひざ》へしたたっている。
「お? いけねえ、何か拭《ふ》く物、ふくもの――」
「それ御覧、お米の水を、何だねえ、もったいない。着物だって、たまらないじゃないか。そんな真似《まね》をして見せなくても、わかっているのに。ほんとに、お前さんみたいに、世話の焼ける人ったらありゃアしない。さ、これでお拭きよ」
 ポンと投げて渡したふきんが、右近の顔に当たる。そいつを無造作《むぞうさ》に掴《つか》んで、そこらをふいている可愛い男の顔を、お絃は、食べてしまいたそうに、うっとり見惚《みと》れていようという、まことに春風駘蕩《しゅんぷうたいとう》たるシインだ。
 が、お絃はちょっとしんみりして、
「でも、ほんとに、今日あたり、喧嘩の一つも持ち込みがないと、困るねえ」
「まったくだ。こんなにアブレつづきじゃア、第一、からだが痩《や》せちまわア」
 喧嘩渡世だけに、夫婦の愚痴《ぐち》も変っている。
 そこへ、ガラッ! 威勢《いせい》よくおもての格子《こうし》があいて、聞き慣《な》れない人の訪《おとず》れる声がする。
「御めん下さい。喧嘩屋さんはこちらでございますか」
 喧嘩屋と来た。
 ソラ来た! と、ホッとした顔を見合わせた右近とお絃――さかずきを置いた右近は、そら見ろというように、ちょっと舌を出して、笑いながら右の腕《うで》を叩《たた》いた。
 お絃は、上《あが》り口のはしへ、からだを捻《
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