魔像
新版大岡政談
林不忘
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《テキスト中に現れる記号について》
《》:ルビ
(例)卑怯《ひきょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神尾|喬之助《きょうのすけ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「ころもへん+昆」、342−上−8]
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首
一
「卑怯《ひきょう》! 卑怯ッ! 卑怯者ッ!」
大声がした。千代田の殿中《でんちゅう》である。新御番詰所《しんごばんつめしょ》と言って、書役《かきやく》の控えている大広間だ。
荒磯《あらいそ》の描いてある衝立《ついたて》の前で、いまこう、肩肘《かたひじ》を張って叫び揚げた武士《さむらい》がある。
紋服に、下り藤の紋の付いた麻裃《あさかみしも》を着て、さッと血の気の引いた顔にくぼんだ眼を据《す》え、口唇《くちびる》を蒼くしている戸部近江之介《とべおうみのすけ》である。西丸《にしまる》御書院番頭《ごしょいんばんがしら》脇坂山城守《わきざかやましろのかみ》付きの組与頭《くみよがしら》を勤めている。それが、激怒《いかり》にふるえる手で、袴の膝を掴《つか》んで、ぐっと斜めに上半身を突き出した。
「ぶ、無礼でござろう。神尾氏《かみおうじ》ッ! 謝罪召されい!」
畳を刻《きざ》んで、詰め寄せている。同時に、居流れる面々が、それぞれ快心の笑みを浮かべて、意地悪げに末席の一人を振り向いた。
其処《そこ》に、神尾|喬之助《きょうのすけ》が両手を突いている。
おなじくお帳番《ちょうばん》のひとりとして、出仕《しゅっし》して間もない若侍《わかざむらい》である。裃《かみしも》の肩先が細かく震えているのは、武士らしくもない、泣いてでもいるのか、喬之助は顔も上げ得ない。
どッ! と、浪のような笑声が、諸士の口から一つに沸いて、初春《はる》らしく、豊かな波紋《はもん》を描いた。が、笑い声は長閑《のどか》でも、どうせ嘲笑《ちょうしょう》である。愚弄《ぐろう》である。一同が高だかと、哄笑《こうしょう》を揺すりあげながら、言い合わしたように、皆じろり[#「じろり」に傍点][#「皆じろり[#「じろり」に傍点]」は底本では「皆じろ[#「皆じろ」に傍点]り」]と小気味よさそうな一|瞥《べつ》を末座《まつざ》へ投げると、いよいよ小さくなった神尾喬之助は、恐縮《きょうしゅく》のあまり、今にも消え入りそうに、額部《ひたい》が畳についた。
「ふん、如何に中原《ちゅうげん》の鹿を射当てた果報者じゃとて、新役《しんやく》は新役、何もそうお高く留まらずとも、古参《こざん》一同に年賀の礼ぐらい言われぬはずはござるまいッ!」
いつもの通り、列座同役《れつざどうやく》の尻押しにいきおいを得て、戸部近江之介はなおも威猛高《いたけだか》である。自分で怒っているうちに一そう激しく怒り出すのがこの人の性癖《くせ》で、口尻《くちじり》を曲げてこう言い放った時、近江之介は、自らの憤怒《ふんぬ》に圧倒されて、もはや口も利《き》けない様子だった。が、ちらりと眼を人々の顔に走らせて同意を求めると、池上新六郎《いけがみしんろくろう》、飯能主馬《いいのうしゅめ》、横地半九郎《よこちはんくろう》、日向一学《ひなたいちがく》、猪股小膳《いのまたこぜん》、浅香慶之助《あさかけいのすけ》、峰淵車之助《みねぶちくるまのすけ》、荒木陽一郎《あらきよういちろう》、長岡頼母《ながおかたのも》、山路重之進《やまじじゅうのしん》、大迫玄蕃《おおせこげんば》、妙見勝三郎《みょうけんかつさぶろう》、保利庄左衛門《ほりしょうざえもん》、博多弓之丞《はかたゆみのじょう》、笠間甚八《かさまじんぱち》、箭作彦十郎《やづくりひこじゅうろう》、松原源兵衛《まつばらげんべえ》――居ならぶ御書院番衆《ごしょいんばんしゅう》の頭が、野分《のわけ》のすすきのように首頷《うなず》き合い、ささやき交《かわ》して、眼まぜとともに裃の肩がざわざわ[#「ざわざわ」に傍点]と揺れ動く。
同時に、色いろの声がした。
「戸部氏のご立腹、ごもっともでござる。下世話《げせわ》にも、とかく女子《おなご》にもてる男には嫌なやつが多いと申す、ぷッ! 高慢面《こうまんづら》、鼻持《はなも》ちならぬわ」
「神尾氏ッ! こウれ! 無言は非礼、何とか早速御挨拶あって然るべしじゃ」
「旨いことを並べて園絵どのを蕩《たら》し込む口はあっても、われらに応対する口はないと言わるるのか?」
「めでたい年頭、ことには城中、それがしとてかく大声《たいせい》を発しとうはないが、実もって常日《じょうじつ》、神尾氏の振舞いには眼にあまる角《かど》が少なくござらぬて」
これは、ふたたび
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