戸部近江之介である。日向一学と妙見勝三郎が、憎さ気《げ》に喬之助を凝視《みつ》めながら、一しょにいい出して言葉が衝突《ぶつか》った。
「新参者の――」
「ともあれ――」
妙見が日向を見た。お先にという意《こころ》である。日向は口を噤《つぐ》んで、妙見に譲っている。然らば御免、というように、妙見勝三郎がちょっと目礼してはじめた。
「ともあれ、一年の計はこの元旦にあり、従前《まえかた》のごとく新入りの若年者に侮られ続けては、余《よ》の仁《じん》は寛容あっても、この妙見の一分が相立ち申さぬ。ここは何とあっても、一つ神尾氏の御所存ばし承わりたいところ――」
物々しく語尾《あと》を呑んで、そのまま日向一学に渡す。受け取った一学が、改めて、
「新参者の分際《ぶんざい》で――」
と、やり出したとき、どウウウウん、どうん! お太鼓櫓《たいこやぐら》で打ち出した八刻《やつ》の合図である。長廊下の向うから多勢の気配が曲って来て、老中方お退出《さがり》という声がする。はッ、と今の今までがやがやしていた連中が慌てて平伏すると、やがて、しいッ、しッ! と警蹕《けいひつ》を掛けながら、二人のお小姓が御用箱を目八分に捧げて先に立つ。その後から、第一番に松平|越中守《えっちゅうのかみ》、久世大和守《くぜやまとのかみ》、松平|周防守《すおうのかみ》[#ルビの「すおうのかみ」は底本では「すほうのかみ」]、牧野|備中守《びっちゅうのかみ》、岩城播磨守《いわきはりまのかみ》、それにお側御用御取次水野|出羽守《でわのかみ》の以上六名が、いずれも一人一役のお歴々である。松平越中守は青竹を削《そ》いだような顔に鋭い微笑を浮かべて、久世大和守は例によって太い眉毛をぴくぴく[#「ぴくぴく」に傍点]させて、でっぷり肥った牧野備中守は上眼使いに顎を引いて、小男の岩城播磨守は猪首《いくび》に口をへの字に曲げて、長身、痩躯《そうく》、白皙《はくせき》、胡麻塩《ごましお》、各人各様《かくじんかくよう》の一癖ありげな面だましいだ。左右の肩衣《かたぎぬ》を一斉に振って、のっさのっさと長袴の裾を捌《さば》き、磨き抜いた板廊《いたろう》を雁のように一列になって退《さが》って来る。
何か頬を上気させた水野出羽守は、いつもと同じせかせか[#「せかせか」に傍点]した歩調で殿《しんがり》である。
二
続いて、廊下のむこうから、また声がする。若年寄お退《さが》り! というのだ。
これで、そろそろ頭を上げかけていた御書院番の連中は、いそいでまたもや畳を舐《な》めんばかりに這《は》いつくばる。そこへ、いま言った若年寄であろう。五、六人の大官が、綺羅星《きらぼし》を集《かた》めたように美々しい一団となって通りかかった。加納遠江守はすぐわかる。眼じりに有名な黒字《ほくろ》がある。泣きほくろだと言うので泣き加納の名があるが、本人はこの綽名《あだな》と正反対に始終にこにこ[#「にこにこ」に傍点]している。その泣き加納と何かささやきながら、よろけるようにして往くのが米倉丹後守《よねくらたんごのかみ》である。足が悪いのである。すぐ後から安藤|対馬守《つしまのかみ》が、頭脳のなかで謡曲《うたい》でも復習《さら》えているように、黙々と、しかし朗かな顔付きでやって来る。太田若狭守が大きく手を振って、足早に追いついた。そして低声《こごえ》で何か言うと、対馬守がほほえんでしきりに合点《がってん》合点をしている。ひとり遅れて、平淡路守が超然と歩いて来る。山野に遊んで四方《よも》の景色を賞美していると言ったような、妙に俗塵離《ぞくじんばな》れのした恰好だ。背がすらり[#「すらり」に傍点]と高いので、年賀の礼装がこの人には一層よく似合う。白い顔を真っ直ぐに立てて、一歩ごとに袂《たもと》を叩くように、ぶらり、ぶらりとあるいてくる。誰かを待ち合わせているようにも見える。と、うしろの廊下の角から人影が現れた。下ぶくれの和《なご》やかな顔である。晴ればれと眼を笑わせている。頬をきざむ皺《しわ》に、人間的な、或いは浮世的なと言いたい、人生経験といったようなものが、深く彫り込められて見えるのである。誰にでも笑いかけそうに、そのくせ固く結んでいる口辺には、侵《おか》すことを許さない意志の力が覗いているような、気がする。中肉中|背《ぜい》である。いや、いささか肥《ふと》っているほうかも知れない。横から見るとすこし猫背だ。両手をきちん[#「きちん」に傍点]と袴のまち[#「まち」に傍点]へ納めて、すウッすッと擦《す》り足である。見ようによっては、恐ろしく苦味《にがみ》走って見える横顔に、元日の薄陽《うすび》がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と影を踊らせている。八|葉《よう》の剣輪違《けんわちが》いの定紋を置いた裃を着ている。遅
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