いようで、妙に速い歩き方である。間もなく、それとなく待っていたらしい平淡路守と一緒になって、ちょっと両方でおじぎしてははは[#「ははは」に傍点]と低く笑った。並んで歩き出す。
 友達らしいのである。
「上《じょう》々の天気で――」
 言いかけて、淡路守はあとを濁した。同伴《つれ》の士《ひと》は、面白そうににっこり[#「にっこり」に傍点]して、
「何よりの幸《さいわい》です。しかし、それはあくまで今日の天候のことでございましょうな。それとも上様の御|機嫌《きげん》――」
「あはははは、そこまで仰言《おっしゃ》っては――両方でござる。両方でござる」
 いま、将軍吉宗に拝して、年始《ねんし》の礼を述べて来たところである。年の変ったゆったりした気もちが、何か冗談の一つもいいたいように、二人の胸を軽くしていた。
「越州殿はお人が悪い。こりゃすこし、向後《こうご》口を戒めると致そう」
 この淡路守の相手は、大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》なのである。江戸南町奉行大岡越前守|忠相《ただすけ》である。老中、若年寄、御小人目附《おこびとめつけ》、寺社奉行、勘定奉行、町奉行と来て、これを四十八高という。そのうち、一国一城の主君《あるじ》である大頭株に介在して、身分は単に一旗本に過ぎないのだが、ふだんから一|目《もく》も二目も置かれて破格の扱いを受けているのがこの大岡越前である。
 今の淡路守の言葉には、ふくみ笑いを洩らしたきり笑えなかったが、ちょうど新御番詰所の前の廊下にさしかかって、御番衆が斉《ひと》しく手を突いて送っているのを見ると、気易《きやす》な態度でちょっと頭を下げながら、其処を通った。
 これが最後で、もう続く跫音がないようだから、戸部近江之介をはじめ池上新六郎、飯能主馬、横地半九郎など畳の目を数えていた一同が、ほっ[#「ほっ」に傍点]として身を起して、これからまたそろそろ新役の若侍神尾喬之助をいじめにかかろうとしていると、えへん! えへん! と咳払《せきばら》いの声が、先触《さきぶ》れのように廊下を流れて来る。
 大目附《おおめつけ》である。
 その咳ばらいを聞くと、御書院番の連中は急に居ずまいを直して、四角《しかく》くなった。
 殿中|随《ずい》一の雷おやじとして怖がられている大目附近藤相模守|茂郷《しげさと》が、そこへ来かかっているのだ。

      三

 拝領葵《はいりょうあおい》の御紋服に丸の扇の紋のついた裃を着て、腰は二つ折れに曲がり、赭顔《あからがお》の額部《ひたい》に皺が浪のように畝《うね》って、頭髪は真っ白である。近藤相模守は七十七の老人だ。しきりにエヘンエヘンと咳払いをつづけて来る。つまり、今わしがここを通っておるぞと報《しら》せて、行儀の悪いやつは、形を正させ、よくないことをしている者には、それを中止して何食わぬ顔をするだけの時間を与えようとしているのである。この大目附は、殿中ではもっともむずかしい役の一つとなっていたもので、何しろ、千代田城は将軍家の邸宅とは言え、現在《いま》で言えば、役所をも兼ねているところだ。多勢の人間が詰めかけて事務を執《と》り、仕事をするのだから、長いうちには色いろ面白くないことも出て来る。と言って、それを一々|咎《とが》めだてしていては、針の先のようなことまで表沙汰《おもてざた》にして、違反者ばかり出していなければならない。もっとも、百箇条の項目に触れるような重大事なら、存分《ぞんぶん》に取り締ることも処分することも出来るし、また、それが大目附の役儀でもあるのだが、やれ少々膝をくずしたの、雑談をしていたの、欠伸《あくび》をしたのということは、そうそう取り締れるわけのものでもない。といい条《じょう》、発見《みつ》けた以上は役目柄叱らない訳にもいかず、そんなことをしていては日もまた足らずなので、そこで歴代の大目附が、経験と必要に即《そく》して案出したのがこの咳払いである。大目附は、登城《とじょう》下城《げじょう》に城中を通るとき、えへん、えへんと盛んにこの出もしない咳をして歩く。殊に、若侍の多い溜《たま》りへでも近づくと、咳のしつづけである。だから、城士のほうでも心得ていて、このえへん[#「えへん」に傍点]が聞えて来ると、さあ大目附が通るというので、警《いまし》め合って坐《すわ》り直す、襟を掻《か》きあわす、袖口《そでぐち》を引っ張る、そこらを片付ける、急に忙しそうに書類などをめくり出す――一時的だが、咳払い一つで立派に綱紀粛正《こうきしゅくせい》の目的を達していた。とりわけこの近藤相模守茂郷は三十一の時に大目附へ召し出されて、七十七歳まで勤め続けて来た殿中の活字引《いきじびき》である。まるで一生を咳払いに送って来たようなもので――そら来たと御番衆が他所《よそ》行きの顔を並べている
前へ 次へ
全77ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング