と、一段猛烈に咳払いをしながら、前の廊下を通りかかっている。
 口をもぐもぐ[#「もぐもぐ」に傍点]させて、両手を袂へ落としている。これは正月のことで寒いから、老人だけに袖の中に温石《おんじゃく》を持って、手を温めているのである。
 ちょっと立ち停《ど》まって、新御番詰所に控えている番士一同を霞《かすみ》のように見渡しているから、何か言うかなと思うと、そのまま何にもいわずに、大きな咳払いを一つ残して往《い》ってしまった。
 この大目附近藤相模守がもうすこし遅れて退出して来れば、あんな騒ぎにはならなかったろう。すくなくとも、血を見るようなことは、例の遠くからの咳払いで未然《みぜん》に防ぐことが出来たかも知れないのである。
 一月一日である。泰平つづきの公方様《くぼうさま》の世だ。その新年の盛儀である。大手|下馬《げば》さきは掃き潔《きよ》められて塵一本もとどめない。暁《あけ》の七つから一門、譜代《ふだい》大名、三千石以上の諸役人が続々と年始の拝礼に参上して、太刀《たち》目録を献上する。大中納言、参議中将、五位の諸太夫等には時服《じふく》二|領《りょう》ずつ下し置かれる。兎のお吸物とお茶の式がある。お白書院がこれに相伴《しょうばん》する。御三家が済んで、御連枝溜詰《ごれんしたまりづめ》、大広間|譜代《ふだい》、柳間出仕《やなぎのましゅっし》、寄合御番《よりあいごばん》、幸若観世太夫《こうわかかんぜだゆう》と順々に装束を正して将軍拝賀に出る。それこそ絵のような景色である。
 兵馬《へいば》はすでに遠い昔の物語である。世の中はのんびり[#「のんびり」に傍点]している。こういうことにでも大げさな儀礼をつくし、式例を立てて騒ぐのでなければ生甲斐《いきがい》がないと言っているように見えるのである。町方はまたそれぞれの格式で年賀の礼に廻る。江戸中の商店は戸を閉ざして休んでいる。千鳥足が往く。吉方詣《えほうまい》りが通る。大川の橋や市中の高台に上って初日を拝する人が多い。深川の洲崎《すさき》にはこの群集がぞろぞろ続いている。と言ったどこまでも呑気《のんき》な世風である。
 のんきはいいが、言い換えれば、退屈でしようがないともいえる。ことに、大した落度《おちど》がない限り、世襲の禄を保証されて食うに困らない役人などは、自然、閑《ひま》に任せて、愚にもつかないことで他人を弄《ろう》し楽しもうというようになる。いわば小姑根生《こじゅうとこんじょう》だが、当人はそうと気づいてやっているわけではない。自分の面目《めんぼく》にかかわると考えて、ひいては、役目のおもて天下国家の一大事とも観《かん》じているのだ。
 早い話が、この戸部近江之介を筆頭《ひっとう》に御書院番の一同である。もっとも、これには色いろ仔細《わけ》のあることだが、いったい普段から総がかりで新役の神尾喬之助に辛《つら》く当って悦《よろこ》んでいる。その喬之助が、今日出仕して来て詰番一統に改まって年始の礼を述べないといって、組与頭《くみよがしら》戸部近江之介が最先に文句を言い出した。が、喬之助は、詰所へ這入《はい》ると同時に立派に挨拶をしたのである。その時はがやがや[#「がやがや」に傍点]話し込んで知らん顔をしていて、あとになって、はじめて喬之助の存在に気が付いたようにこんなことを言い出す。要するに難癖《なんくせ》だから、喬之助は、おとなしく平伏したまま無言でいた。で、いくらこっちばかり一人で怒っても、相手が黙り込んでいるのでは、喧嘩にならない。そこで、こうまで言ったら怒るだろう、怒ったら面白いぞ、という肚で、近江之介は呶鳴《どな》ったのである。
「卑怯者ッ――!」
 そして、呶鳴《どな》ってしまってから、近江之介は、自分でもほんとに怒れて来た。

      四

 いま、老体の大目附も、咳払いと一しょに下城してしまう。
 あとは、ちょっと森閑《しんかん》としている。
 御書院番衆はやれやれ[#「やれやれ」に傍点]と寛《くつろ》ぎ出して、急にそこここに話声も起り、中断されていた喬之助いじめをまたはじめようとそっちのほうを見ると、もう皆頭を上げているのに、喬之助だけは、まだ平蜘蛛《ひらぐも》のように畳に手をついている。
 袖ひき、眼配《めくば》せして、一同は喬之助を取り囲んだ。
 箭作《やづくり》彦十郎は変にねっとり[#「ねっとり」に傍点]した口調である。
「神尾氏、居眠ってござるかの? あははは、その初夢に拙者もあやかりたいほどじゃが、ここは殿中、さまで疲労しておらるるなら、悪いことは言わぬ。下城《さが》って御休息なされい」
「疲労?」長岡頼母が頓狂な声をあげる。「疲労はよかったな。園絵《そのえ》殿と番《つがい》の蝶では、如何な神尾氏も疲労されるであろうよ」
 下卑《げび》た言い草である。二
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