、三の者は笑い声を立てたが、戸部近江之介は明白《あきらか》に嫌な顔をして、一そう憎悪に燃えるように、立ったまま喬之助を見下ろしている。
いわゆる猥談《わいだん》は詰所のつきものでもあるし、近江之介はこの豪《ごう》の者でもある。近江之介が嫌な顔を見せたのは、今の長岡の言葉が下品なひびきを持っていたからではない。それは、近江之介の胸底にある喬之助への嫉妬を、一段と掻き立てる役目をしたからである。
園絵というのは、神田三河町三丁目で質両替油渡世《しちりょうがえあぶらとせい》をしている伊豆屋伍兵衛《いずやごへえ》の娘で、本名をお園という当代評判の美女である。それがどうして園絵殿と言われて、新御番神尾喬之助と結びつけられ、しかもこうして再三この殿中新御番詰所の噂に上っているかというと、つまり、組与頭の近江之介と新入《しんい》りお帳番《ちょうばん》の神尾喬之助とが、町娘のお園を争ったのである。
伊豆伍《いずご》は、身上《しんしょう》二十五万両と言われる神田三河町の大店《おおだな》だ。一|代分限《だいぶんげん》で、出生《しゅっせい》は越後の柏崎《かしわざき》だという。故郷《くに》を出る時は一文無しだったのが、紙屑や草鞋《わらじ》の切れたのを拾ったりして、次第に身代を肥《ふと》らせて今日に至った。奉公人も多勢使って、江戸で伊豆伍《いずご》と言えば知らない者はないのだが、この伊豆伍の有名だったのは、その莫大な富ばかりではなく、今年|二十歳《はたち》になるお園という娘が、美人番付の横綱に載って名を知られていたからだった。閑人《ひまじん》の多いその頃のことである。何々番付という見立てが大いに流行《はや》って、なかにも、美人番付には毎々江戸中の人気が沸騰《ふっとう》した。その美人番付の筆頭に据えられたお園である。顔を見ようというので、金に困らない連中まで遠くの方からわざわざ伊豆屋へ質を置きに来る。一日に二度も三度も油を買いにくる。おかげで店はますます繁昌したが、そこで伊豆屋伍兵衛は考えたのである。
自分はもともと百姓の出だ。それがかくして土一升金一升の江戸で大きな間口《まぐち》を張る商家の主となったが、今度は一つ、何とかして娘のお園を名のある侍へ縁づけて、お武家を親類に持ちたいものだ。自家と対等、或いはそれ以上のところからさえ、町家なら、養子の来人《きて》は降るようにある。何しろ江戸一の美女に二十五万両の身代が随《つ》いているのである。自薦《じせん》他薦《たせん》の養子の候補者は、選《よ》りどり見どりだが、苦労を知らない大家《たいけ》の次男三男を養子に貰ったところで、よくいう、初代が『初松魚《はつがつお》伊勢屋の前をすぐ通り』二代目へ来て『二代目の伊勢屋の前に初松魚』、三代目となると『売家と唐様《からよう》で書く三代目』という川柳の通りに、悪くすると家の落目《おちめ》を招くにきまっている。それよりは、お店の番頭の中からでも見どころのある男を選んで、それに他家《ほか》から嫁を貰い、夫婦養子をしたほうがよくはなかろうかと、伍兵衛は、女房のおこよとも相談してそうすることに決心した。そして、どうせお園を手離《てばな》すなら、何の誰それと人にも言えるお武士《さむらい》の許へ嫁にやろうとなって、伊豆伍は、西丸御書院番頭の脇坂山城守の屋敷へ出入りしているのを幸い、親しく山城守に目通りを願ってこの儀を頼み込んだのだった。
町人とは言え、富豪である。それに、お園の名は武家社会へさえ知れ渡っているから、酔狂《すいきょう》に引き請《う》けた山城守だったが、伝手《つて》を求めて申し込んで来る若侍の多いのに、却って山城守が当惑したくらいだった。しかし、結局、もっとも熱心な二人が篩《ふる》い落されておしまいまで競争した末、近頃になって勝負はついたのである。戸部近江之介は役は上だが、年が寄り過ぎている。そこへいくと、神尾喬之助は、若いことも若いし、第一、家柄がいい。が、先ず何と言っても、お園が江戸一の美女なら、西丸御書院番の神尾喬之助は江戸一の、いや、ことによると日本一の美男であろう。そのことは、娘のお園より先に伊豆伍夫婦が惚《ほ》れ込んでしまったのでもわかる。
似合いの夫婦だ。内裏雛《だいりびな》だというので、美しいものを二つ並べる興味に、親達のほうが騒ぎ出した。もっとも、喬之助には琴二郎という小さな弟があるきりで両親はないのだから、親たちといっても伊豆屋の方だけだが、当人同士が恋い焦《こが》れていたことは、言うまでもない。山城守としては、近江之介に眼をかけているので、この婚儀にはあまり進まない様子だったが、先に立って反対すべきことでもないから、伊豆伍に頼まれるまま、部下の御家人で那見《なみ》市右衛門という老人を仮親《かりおや》に立て、名を園絵と改めさせて、牛込築土
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