ね》じ向けていた。
「はい。こちらはそのお訪ねの家でございますが、あなた様は、どちらから――?」
「喧嘩の先生は御|在宅《ざいたく》でございましょうか」
 いうことが一々変り過ぎてる。
 喧嘩の先生には、さすがのお絃も眼をぱちくりさせて、
「はい、右近さまなら、ここにおいでですが――」
「そりゃアよかった。あっしは下谷黒門町の左官職、壁辰てエ者でございます」
 言いながら、外から、上《あが》り框《がまち》の障子をあけるのと一|拍子《ひょうし》に、茨右近は、もうスックと起《た》ち上っていた。
「爺《と》ッつぁん、何だい、エおう、喧嘩かい」そして、ゆっくりと、「待ってたぜ」
「何だねえ、お前さん、はなしも聞かないうちから」
 お絃が、たしなめるように、うつくしい眉《まゆ》をひそめた。
 お絃の笑い顔が、戸口へ向った。
「黒門町さんでいらっしゃいますか。サ、マ、お上りなすって」
 壁辰のうしろに同伴者《つれ》らしい人影がうごいた。

      三

 飛んで火にいる夏の蟲――といったところで、その夏の蟲が、神尾喬之助なんだから、そう容易《やすやす》と捕《と》られもしなかったことだろうが、とにかく、知らずにはいった家が、黒門町の壁辰という、御用十手の親分の家で、すんでのことで立廻りになると見えたところを、娘のお妙の侠気と恋ごころから、あぶないところを救われたのだったが、それをまた、筆幸《ふでこう》の息子幸吉という、おせっかいなのが、裏口で立ち聴《ぎ》きしていて、岡焼《おかや》き半分から、忠義顔《ちゅうぎがお》に、牛込やきもち[#「やきもち」に傍点]坂甲良屋敷の脇坂山城守の許へ注進した。やきもち坂というのはこれから出たので――などというのは余談。
 が、神尾喬之助の居どころを言おうとした時、あまりの疲労で意識を失った幸吉を、山城守のまえで、折から居合わせた村井長庵が呼び戻したから、この幸吉の口から、神尾喬之助の現在の居場所を知った山城守、さっそく用人を飛ばして、八丁堀へその旨を伝えた。それッと言うので、八丁堀からは、与力満谷剣之助をお捕頭《とりがしら》に、それに、眼明《めあか》しの金山寺屋の音松と、金山寺屋の手|飼《が》いの捕方《とりかた》を四、五十人もつけて、一隊、闇夜《あんや》の暴風雨《あらし》をついて、黒門町の壁辰の家を襲《おそ》った――まではよかったが、すっかり周囲《まわり》を固めて、同時に家の中へ押し入ってみると、
 なるほど、それらしい職人ふうの男がひとり、娘に匿《かくま》われるようにして立っていたのだが、それにしては、本人も、顔いろ一つ変えていないし、第一、あるじの壁辰が、落ちつき払って坐りこんでしまった。
 音に聞えた黒門町の壁辰である。職人ながら、お捕物《とりもの》にかけては、与力《よりき》の満谷剣之助なども一目も二目も置いている、黒門町なのだ。もし、この男が、山城守から伝わって来たとおり、例のおたずね者の神尾喬之助なら、こうして自分達が出てくるまでもなく、黒門町の手で、とうの昔に押えられていなければならないはずだ。しかるに、家の中の空気は、和気藹々《わきあいあい》として、今まで三人で世間ばなしでもしていたらしい様子である。どうも、飛んでもない人違いではないかしら――。
 あとで、黒門町に、頭の上らないようなことになるのではないかしら――。
 と、思ったから、それ掛れッ! と下知《げち》を下しながらも、満谷剣之助、内心うす気味わるく感じているところへ、その、十手をひらめかして打ちかかろうとしていた御用の勢の真中から、やにわに、金山寺屋の音松の笑い声が聞えたのだった。
「お! こりゃア喧嘩渡世の旦那じゃアござんせんか。ついお見それ致しやして、面目《めんぼく》次第もござんせん。あははは、あなたさまは、神田帯屋小路の茨右近さまでございましたね」
 見事に取り違えた――のか、それとも、これは何か訳があると白眼《にら》んで、黒門町に義理《ぎり》を立てて喬之助を助けるために、とっさに似た人を思い出して、わざと間違えたのか――とにかく金山寺屋の音松が、笑い出してそう言うから、渡りに船とばかりに、ホッと張り詰めていた気を抜いた壁辰が、
「ははははは、金山寺の、とうとう気がついたか。おめえの眼は、さすがに高《たけ》えや。いかにも、このお方は、おめえの今言った、神田帯屋小路の――」
「喧嘩渡世の茨右近さま。なア、それに違えねえのだ」
 いよいよ情を知って助けるつもりとみえる。金山寺屋の音松は、眼顔《めがお》で知らせながら、教えるようにいったのだった。
 それを、逸早《いちはや》く、神尾喬之助も飲みこんで、
「いや、好奇《ものずき》から、かように下らぬ服装《なり》をしておるため、何かは知らぬが、あらぬ嫌疑《けんぎ》をこうむり、えらい人さわ
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