うめい》の真面目《まじめ》な稼業《かぎょう》なので――。
芸州浪人の茨右近《いばらうこん》という男、これが、その、よろず喧嘩買い入れの喧嘩師で、叩くとかあん[#「かあん」に傍点]と音のしそうな、江戸前の生《いき》のいい姐御《あねご》がひとり、お約束の立て膝に朱羅宇《しゅらう》の長煙管《ながぎせる》、その喧嘩渡世の長火鉢のむこうで、プカアリ、プカリたばこをふかしていようという――知らずのお絃《げん》。
どうして『知らず』のお絃というかといえば、このお絃、浮世絵師《うきよえし》が夢に見そうないい女で、二十|七《しっ》、八《ぱち》の脂《あぶら》の乗り切った女ざかり、とにかく、凄《すご》いような美人なのが、性来《せいらい》の侠気《きょうき》が禍《わざわ》いして、いつの間にかこうして女遊人に身を持ち崩し、右手の甲に墨青々と彫りこんだ二行の文身《ほりもの》。曰く、御意見無用《ごいけんむよう》、いのち不知《しらず》。この命知らずが、知らずのお絃の異名をとった謂《いわ》れなのだが――それはそれとして。
ここに、世にも不思議なのは、主人の茨右近である。
他人の空似《そらに》ということは、よくある。が、この茨右近は、あの、元日に殿中において戸部近江之介の首を打ち取り、それを御書院詰所の窓から抛りこんで逐電《ちくでん》して以来、いま復讐魔《ふくしゅうま》と化して、下谷黒門町の壁辰の許《もと》に逃げこんでいる神尾喬之助――かれに、似たといっても瓜ふたつ、そっくりなのである。
西丸御書院番の神尾喬之助は、江戸一の、いや、ことによると日本一の美男であろう――というので、そのために、娘のお園より先に、伊豆伍夫婦が惚《ほ》れこんで、似合いの夫婦だ、内裏雛《だいりびな》だと、うつくしいものを二つ並べる興味に、まず親達のほうが騒ぎ出した、と前にいった。
また、その喬之助が、七日のあいだ身をひそめたのち、七草《ななくさ》の日に、職人すがたに変装して、壁辰の家を訪《おとの》うたとき、いつものように手を拭きふき台所から出て行った娘のお妙は、その男のあまりの綺麗《きれい》に、もうすこしでおどろきの声を揚げるところであった。何しに役者が来たのだろうと思った。いや、三|座《ざ》の役者衆《やくしゃしゅう》にも、あんなのはちょっとあるまい――そう思った。父の壁辰でさえ、筆屋幸兵衛方の棟上《むねあ》げから帰って、茶の間《ま》に待っているこの喬之助を一眼見た時、「あの人相書とこの若僧! 服装《なり》かたちこそ変っているが、おれの眼力《がんりき》にはずれはねえ。それに、それほどの美男が、いくら江戸は広くても、そうざらにある筋はない。そうだ! この奴こそ、いま江戸中の御用の者を煙にまいている、神尾喬之助というお尋《たず》ねものに相違はねえのだ!」と、瞬間《しゅんかん》にして気がついたくらい、それほど、美男である喬之助だ。
それほど美しい喬之助と、瓜《うり》をふたつに割ったよう、どっちからどう見てもまったく同じで、ほとんど区別のしようがないというのだから、江戸一、いや、日本一の美男がもうひとり出来たわけで、さすがに江戸は広い。神尾喬之助の分身ともいいたい、親兄弟でさえ間違えそうな茨右近――知らずのお絃と一しょに粋《いき》な世帯《しょたい》をかまえて、神田の帯屋小路にひらいている物騒な商売、自ら名乗って喧嘩渡世とは一体どういうことをするのであろうか。
旗本奴《はたもとやっこ》ではない。といって、町奴《まちやっこ》では勿論ない。が、いわば巷《ちまた》の侠《きょう》である。町の男伊達《おとこだて》である。喧嘩渡世という看板をあげているとおり、喧嘩なら、何でも買うのだ。何でも買う。直接売られた喧嘩は言わずもがな、他人の喧嘩でも、助太刀《すけだち》さえ頼まれれば、いつどこへでも飛びこんで行って、理窟《りくつ》のあるほうに味方をする。ところが、喧嘩の場合、たいがい弱いほうに理窟《りくつ》があるに相場《そうば》がきまっているから、そこでこの夫婦喧嘩師の茨右近と知らずのお絃は、いつも大勢を向うにまわして、チャンチャンバラバラの場数《ばかず》を踏《ふ》んで来たのだが!――かつて負けたという例《ためし》がない。
というのは、神尾喬之助に生きうつしの、まさるとも劣《おと》らぬ美青年の茨右近。その神尾喬之助が、虚心《きょしん》流無二の遣《つか》い手であるように、右近は、芸州浪人と名乗っているだけに、かの二見《ふたみ》ヶ|浦《うら》の片ほとりに発達しきたった、天馬《てんま》空《くう》をゆく独特の速剣《そくけん》、観化流《かんげりゅう》の大統《たいとう》をつたうる、当代|唯《ゆい》一の妙刀《みょうとう》であったからで。
静中観物化《せいちゅうぶっかをみる》――という論語のことばを採《と》ってもっ
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