辰はここだが、今頃、何誰《どなた》ですい」
何ごころなく、雨の奥をすかし見るように覗《のぞ》いたとき、そこの路地のかげから、一度に雨に濡《ぬ》れた御用提灯の集団《かたまり》が、押し出すように現われて来た。物々しい捕手の一隊だ。四、五十人――もいたろうか。他にもぐるりとこの家をとりまいているらしく、一同落ち着き払った様子で、八丁堀の与力《よりき》で満谷剣之助《みつたにけんのすけ》という、名を聞くとばかに強そうな人が、金山寺屋《きんざんじや》の音松《おとまつ》という眼明《めあか》しと、ほか五、六人の重《おも》立った御用の者をつれて、どやどやとはいりこんで来た。
先方も落ちついていたが、壁辰は、より以上におちついていた。彼は、ちょっとうしろを振り返って、素早くお妙に合図した。お妙も、その非常に、決してとり乱すようなことはなかった。しずかに茶の間へ行って、喬之助の前にすわった。喬之助は、もう知っていた。瞬間、血走った眼が部屋の中を見廻したが、どうせこの家の周囲《まわり》は十重二十重《とえはたえ》であろうと思うと、かれは、起とうとした膝を鎮《しず》めて、眼のまえのお妙を見た。お妙は、きちんとすわって、喬之助の眼を見つめていた。
「参りました。誰が訴人《そにん》をしたのか、わたし達にもわかりませんでございます。ただ、わたし達があなた様をお止め申しておいて訴え出たのではないことだけは、どうぞおわかりなすって下さいませ」
喬之助が、うなずいた。しずかな低声《こごえ》だった。
「それは、よッく解っております。お前さま方が訴え出たのだなどとは、拙者は夢にも思いませぬ」
「それを伺《うかが》って、ほんとに安心致しました」お妙は、ニッコリした。「で、どうなさいます?」
喬之助もほほえんだ。
「さア――来た以上、仕方がない。不本意ながら、お宅《たく》を血だらけに致すよりほか、まず、途《みち》はござるまい。斬合《きりあ》いには、散《ざん》バラ髪《がみ》が一番|邪魔《じゃま》でござる。手拭いを一本――」
「鉢巻《はちま》きでございますか」
お妙は、自分のしていた緋鹿子《ひがのこ》のしごきを手早く取って、二つに食《く》い割《さ》いた。
「存分にお働きなすって――」
「かたじけない。なアに」と笑って、「不浄《ふじょう》役人の五十や六十――」
と、喬之助が立ちかけた時、今まで、戸口に立って与力《よりき》達と押し問答をしていた壁辰が、大きな声でこういうのが聞えた。
「はッはッは、この黒門町を怪《あや》しまれるなら、どうぞおはいりなすって、本人を御らんなすって下さいまし」
「はいるなと言っても、はいるのだ」
満谷剣之助が、金山寺屋の音松ほか二、三人の捕吏《ほり》と、あるじの壁辰をつれて、ドヤドヤと茶の間へ踏み込んで来た。
お妙が、喬之助の前に、庇《かば》おうとするように立っていた。壁辰は、部屋の真ん中にドッカリすわりこんで、がッしと腕を組んだ。四、五人の捕手《とりて》が、十手をひらめかして喬之助へ打ち掛ろうとした。
すると、金山寺屋の音松が、喬之助を見て、頓狂《とんきょう》な声を揚《あ》げたのだ。
「お! こりゃア喧嘩渡世《けんかとせい》の旦那じゃアござんせんか――何《なん》ぼ酔狂《すいきょう》でも、そんな妙ちきりんな服装《なり》をしていなさるから。いやどうも、茨右近《いばらうこん》さまにかかっちゃアかないませんや」と、急にヘラヘラ笑い出して、すぐ呆気《あっけ》に取られている満谷剣之助へ向って、「旦那、これあ眼違《めちげ》えだ。このお方は、あのそれ、神田で名打ての喧嘩渡世の旦那、茨右近さまでございますよ、ねえ黒門町」
喧嘩渡世――とはそも何か?
その頃、神田の帯屋小路《おびやこうじ》に、「喧嘩渡世」という不思議な看板《かんばん》を上げた、粋《いき》な構えの家があった。喧嘩渡世と筆太《ふでぶと》に書いた看板の横には、小さく一行に「よろづ喧嘩買い入れ申し候」
まことに尋常でない稼業《しょうばい》。
あるじは、芸州《げいしゅう》浪人の茨右近。
内儀《おかみ》は、白無垢鉄火《しろむくてっか》の「知らずのお絃《げん》」。
じつにどうも変った組み合わせが変った渡世をしているもので――。
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│ 喧嘩渡世 │
│ よろづ喧嘩買ひ入れ申し候 │
└────────────────┘
[#ここで字下げ終わり]
お命頂戴
一
神田、帯屋小路《おびやこうじ》、
『喧嘩渡世』――という、奇抜《きばつ》な看板をあげた千本|格子《こうし》の家。よろず喧嘩買い入れ申し候、は実にふざけ切っているようで、これが決してふざけているのではない、正真正銘《しょうしんしょ
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