はなかったかも知れないが、いくらキュウピットの矢は無くても、恋をするのに別段不便は感じないのだ。その証拠には、このお妙がそれで――とにかく、これは戯《ふざ》けて済む問題ではなく、お妙は、この時はもう、立派に喬之助を恋していたのだった。
 もっとも、はじめから、そんなはっきりした心もちで、そのため、窮地《きゅうち》にいる恋人を救おうなどという気もちから、ああして父親と喬之助の間へ身を投げ出して、自分でも愕《おどろ》くような口をきいたわけではなく、あれはただ、父壁辰から受け継《つ》いでいる江戸ッ児、江戸ッ児の中でも下谷ッ児の気性《きしょう》が、あの瞬間ムラッと胸にこみ上げて来て、言わば無意識のうちに、気がついた時は、かの女はもうああした思い切った行動をとっていたのだった。何を言ったか、自分ではよく覚えていない。その中でただ一つ、いまだに自分の耳でがんがん[#「がんがん」に傍点]鳴りつづけている自分の声がある――この人は、あたしのいい人でございますよ!
 ああ、なぜ、あんなはした[#「はした」に傍点]ないことを言ってしまったのであろう。
 真剣《しんけん》の時は、思わずほんとの心が出るものだ――とすれば――こう考えて来た時、お妙は、自分が喬之助に熱恋《ねつれん》を捧《ささ》げているのであることを知って、一時に、耐《た》え切れない恥かしさが燃え上って来て、顔が、火のようになっているのに気がついた。
 あんなことを口走って、あの方は、何て下素《げす》な女であろうと、さぞ蔑《さげす》んでいられることであろう。こうも思った。
 お妙は、喬之助の礼には答えなかった。答えることが出来なかった。わけのわからない泣き声が出そうになるのを押し返すのに、彼女は一生懸命だったのだ。喬之助の顔を見ることも出来なかった。
 長いこと、白痴《ばか》のようにぼんやりと、つめたい板の間にすわったきりだった。
 騒ぎにとり紛《まぎ》れて、三人とも、筆屋幸吉が先刻《さっき》まで裏口に立ち聞きしていたことにも、身をひるがえしておもて通りへ駈け出て行ったことにも、気がつかなかった。
 茶の間では、父の壁辰と喬之助とが、ぽつり、ぽつりと話し合っていた。当りさわりのない話題だった。元日の事件のことや、喬之助の身の振り方などには、まだどっちも触《ふ》れていなかった。ただ、こう言っている父親の声が、お妙に聞えた。
「ここにいなさる分にゃア、わたし共はちっともかまいませんが、何しろ人の出入りの多い家だから、かえってお為にならねえかも知れねえと、それを心配いたしますよ」
 厭《いや》なお父《とっ》つぁん! なぜあんなことを言うんだろうと、お妙は恨《うら》めしかった。
「お妙」父親が呼んでいた。「飯にしよう。一本つけるんだ。魚安《うおやす》へ走ってナ、何か見つくろいをそう言って来な」
 お妙が、ちょっと顔を直して、いそいそと魚安へ走った時、さアッと雲の流れが早く、いまにも泣き出しそうな模様になっていたのだった。

      六

 こみ入った話は、いずれ食後にでもというのであろう。お酒と御飯のあいだ、壁辰と喬之助は、世間《せけん》話のほか何もしなかった。お妙にとっては、消え入りたいように恥かしい、お酌と給仕であった。喬之助は、その白い端正《たんせい》な顔に何らの表情もうかべずに、べつに遠慮をするでもなく、膳《ぜん》に向っていた。ただ杯《さかずき》の数は、すすめられても余り重ねなかった。しまいには、壁辰は手酌で呑んでいた。やがて、食事が終った。もういつの間にか、そとは恐ろしい暴風雨《あらし》の夜になっていた。
「よく降ります」
「左様。風も、だいぶひどいようで」
 茶の間《ま》のほうで、こんなことを言い合っているのが、台所《だいどころ》にすわって、ひとり冷たくなった御飯を食べていたお妙に聞えて来た。自分はこんなに、御飯も咽喉《のど》へ通らないような、わくわくした気もちでいるのに、なぜあの人は、ああ落ちついていなさるだろう――お侍というものは、みんなあんなにつん[#「つん」に傍点]としてそっけ[#「そっけ」に傍点]ないものなのかしら! そう思って、お妙はちょっと淋《さび》しい気がした。
 と、その時だった。裏口に、ちらりと灯《あかり》がさしたような気がした。油障子《あぶらしょうじ》に、提灯《ちょうちん》の灯《ひ》が動いて見えた――と思ったのである。おや! お弟子の誰かでも帰って来たのかしら? と、立ち上ろうとすると、家を吹き飛ばしそうな、恐ろしい雨風《あめかぜ》の音だ。
 その雨にまじって、人声がする。おもての方らしい。低声《こごえ》である。
「御めん下さい。ごめん下さい」と、二三声《ふたみこえ》。つづいて、「壁辰さんは、こちらですかい」
 壁辰が起って行った。がらり格子をあけた。
「壁
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