》けて来る途中、屋敷の近くへ来てからこの雨にやられたとみえて、全身|濡《ぬ》れ鼠になって惨《みじ》めな幸吉のすがたが、おずおずしながら通されて来た。
が、おずおずして見えたのは、濡れた着物と、大所の武家やしきに慣《な》れない幸吉の態度だけで、幸吉の心もちは、ちっともおずおずしてはいなかった。おずおずするだけの余裕《よゆう》さえかれのこころにはなかった。何故なら、幸吉は、その部屋へ通されて、そこに山城守と一緒に思いがけなく村井長庵がいるのを見るや、長庵とはおやじの幸兵衛が交際《つきあ》っていて幸吉も識《し》っているので、山城守に挨拶することも忘れて、いきなり、長庵に獅噛《しが》みつくようにして言ったのだった。
「おお、長庵さん、お察し下さい。わたしゃ口惜《くや》しいのだ――あんな、あんな、お尋ね者に、お妙が心を寄せるなんて――」
「シッ、コレ、幸吉どん、ここをどこだと思う? 殿様の前ですぞ。そんなに取り乱して、一たい全体なにがどうしたと言うんです」
「あッ!」と幸吉は、はじめて山城守が眼に入ったように、「殿様! 御注進《ごちゅうしん》! 居ます! います! あの野郎が居ます! わたしは裏口の隙間から覗《のぞ》いて見ましたんで声も聞きました――話も聞きました――アア、アア、草臥《くたび》れた」
「ナ、何がいるというのですい。これ幸吉どん、しっかりしなさい。いったい何者がどこにいるというのだ――」
崩《くず》れようとする幸吉を、長庵が抱《だ》くようにして訊《き》いた。何事か?――と出て来た数人の家来《けらい》達に取りまかれて、関取《せきとり》のように大きな山城守が、スックと立って幸吉を見下ろしていた。
すると、何者が、どこにいるのだ?――と叱るように長庵に訊かれて、糸のような細い声で幸吉がいったのだ。
「か、神尾――」
「な、何イ?」
山城守の顔がさっと変った。一同も打たれたように反《の》けぞって、ざわざわと幸吉のほうへ詰《つ》めよった。幸吉が言っていた。
「神尾――喬之助、というおさむらい――」
「うむ。その神尾喬之助は何処《いずく》におると申すのか。速《すみや》かに言えッ!」
山城守が叱咤《しった》した時、幸吉は、だんだんぐったりとなりながら、
「あっち――」
と右手を横に伸《の》ばしたかと思うと、だらしのないやつで、あんまり駈けつづけて来たので、そのままそこに気を失ってしまった。
「なに、直ぐ呼び返します。ちょいとわたくしが手当てを致しますれば――」
折角、あの神尾喬之助の居場所を知らせに来た者が、その肝腎《かんじん》の場所を言わないうちに呼吸《いき》が絶《た》えてしまってはしようがない。気が気でないので、一同があわてふためく中で、医道《いどう》の用はこの時にありとばかり、長庵は大得意《だいとくい》だ。意識不明の幸吉を仰向《あおむ》けに寝かして、
「ちょいと、失礼を」
なんかと言いながら、いやに落ちついて十徳を脱《ぬ》ぎはじめた。いくらまやかし[#「まやかし」に傍点]医者でも、幸吉の気絶ぐらいは直せるだろう。
山城守をはじめ一同は息を凝《こ》らして、長庵の手腕《うで》によって幸吉が意識を恢復《かいふく》し、ふたたび口をひらくのを待っている――。
そとは大暴風雨《おおあらし》になっていた。
四
そとは大暴風雨になっていた。
で、黒門町の壁辰の家でも、早くから雨戸をしめ切っていた。乾児《こぶん》たちは、筆屋のふるまい酒に酔い痴《し》れたあげく、例によって吉原へでも繰りこんだのであろう。まだ一人も帰って来ていなかった。茶の間の長火鉢をへだてて、壁辰と喬之助がすわっていた。お妙は、父親の壁辰のうしろに隠《かく》れるようにして、もじもじとうつむいていた。
いま、三人で夕餉《ゆうげ》を済ましたところである。喬之助と壁辰が、ぽうっと眼のふちを赤くしているのは、食前に、お妙の酌《しゃく》で、さしつ差《さ》されつしたものであろう。もうそんなにも、他意《たい》なく打ち解けていた三人であった。
壁辰が、喬之助めがけて振り上げた十手を、さらりと打ち捨てたからである。
あの、血を吐《は》くようなお妙のたんか[#「たんか」に傍点]――「お父《とっ》つぁん、十|手《て》、十手、十手というものは、血も涙もないんでございましょうかねえ――しっかりして下さいよ。この人は、あたしの好《い》い人じゃアありませんか」という、あれが、恋は弱い者を強くし、強い者を弱くする、弱い娘の口からこの強い言葉が吐き出されたばかりに、それには、強い壁辰のこころを弱くするだけの、まさに千|鈞《きん》の重みがあったのだ。錐《きり》のように、父壁辰の胸をもみ抜いたのだった。壁辰とても、御用十手を預っている自分が、喬之助を召し捕ろうとしたことが、
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