両替油渡世《しちりょうがえあぶらとせい》のほうにも手を出して、かねがね長庵さんを通して脇坂様の殿様にお取り持ちを願ってあるように、やがては、同じ越後《えちご》の柏崎出のあの伊豆屋伍兵衛を蹴落《けおと》して、この筆屋が成り変ってお城の御用を仰せつかることも出来ようというものだ」
 すっかり嬉《うれ》しくなっちまった筆屋幸兵衛、思わず大声に、茶の間《ま》のおかみさんに話しかけた。
「婆《ばあ》さんや、よろこびな――筆屋は万々歳《ばんばんざい》だ。この屋台骨はびくともしねえぞ!」
 いきなり呼びかけられて、何の話だか知らないから、おかみさんは新しい建前のことだとばかり思って、
「当り前じゃアありませんか。きょう棟上《むねあ》げをした許《ばか》りですもの。そんなにすぐ屋台骨がぐら[#「ぐら」に傍点]ついて耐るもんですか」
 感ちがいしている。何を言やアがる、婆さんこの頃すこし耄碌《もうろく》して来たぞ、と、筆屋幸兵衛は呟《つぶや》いた。

      三

「それでは殿様、わたくしはこれで失礼を――」
「おう、長庵、帰るか。では、な、琴二郎をあやつって聞き出すこと、よっくその方に頼んだぞ」
「はい。この長庵めがお引きうけ申しました以上、口幅ったいようでございますが、ズンと御安心なすって下さいまし」
「うむ。いつもながら頼もしいぞ」
「恐れ入ります。ごめん下さいまし」
 脇坂山城守に挨拶を済ました村井長庵が、腰《こし》を上げて帰ろうとしていると、いつの間にか空の一|角《かく》が曇って、雨を宿すらしい真っ黒な雲が、お庭の樹立《こだ》ちの上に古綿のように覆いかぶさっているから、お縁《えん》へ出てそれを見上げていた長庵が、室内の山城守を振り返って、
「殿様、恐ろしい降りになりそうでございます」
「そうさのう」山城守は、何かもう他のことでも考えているのか、うるさいと言わんばかりに、気のなさそうな声だ。「雨か。なるほど、雨になるらしい模様だな」
「稼業用《しょうばいよう》の一張羅《いっちょうら》を濡らしましてはかないません。やって参りませんうちに、いそぎますでございます」
「うむ。それがよい。早う行け」と、山城守は、つぎの間に控《ひか》えている小姓《こしょう》に声をかけて、「これこれ、長庵が帰るぞ。誰ぞある。たれか長庵を送ってとらせい」
「いえ、もう、それでは、却って恐れ入りますでございます。失礼ながらおやしきの勝手を心得ております長庵、ひとりで引きとらせていただきますでございます」
 言っているうちにも、サッと濡れた風が吹き込んで来て、お部屋の戸障子《としょうじ》がガタガタと鳴る。木の枝の騒ぐ音が何やら物すごく聞えてくる。見るみる世の中が真っ暗になって行くような心もちで、その闇《くら》い中で、脇坂山城守の机の上にひらいてある書物が、風に煽《あお》られてヒラヒラ白く動いて見える。
 山城守は、すわったまま身を屈ませて、軒の端ごしに空を仰いだ。
「これは、暴風雨《あらし》になりそうだぞ。恐ろしいあらしに――」
 言葉の終らないうちに、ゴウッ!――家棟《やむね》が震動《しんどう》して、パラリ、屋根のどこかに音がしたかと思うと、冬の雨は脚《あし》が早い。早やつづけさまに軒を叩《たた》いて――本|降《ぶ》りだ。
「こりゃいかぬ!」
 山城守は、起《た》ち上った。あけ放してある縁から雨滴《うてき》が躍《おど》りこんで来て、畳を濡らし、長|駆《く》して山城守の膝を襲《おそ》いそうにするので、かれはあわて出したのだ。立って行って、自分で障子をしめようとした。そして、その廊下に、まだ村井長庵がまごまごしているのを見て、
「長庵、今は帰れぬ。一まず、こっちへはいれ。はいって、雨止《あまや》みを待つがよい」
「へいへい」
 長庵と、長庵を送りに立った小姓とが、山城守の言葉に甘えてお部屋へ逃げ込もうとしていると、雨は一そう激しくなって、地面を打ち、樹々《きぎ》を叩いて、障子にも、ポツリ、ポツリ、大粒な水のあとが滲《にじ》み出している。
 遠い縁のはずれで、にわかに雨戸《あまど》を繰り出す大勢の声が、立ち騒いで聞えていた。
 と、この時、雨の吹きこむ縁側を用人の一人がいそいで来て、障子をあけるなり、
「殿様」
「何じゃ」
「下谷長者町筆屋の伜《せがれ》幸吉と申す者が、急なお眼通りを願って参上いたしました」
「なに、筆屋のせがれ幸吉が参った?」
 山城守と長庵は、ちら[#「ちら」に傍点]と眼を合わせた。長庵が出《で》しゃ張って、口をきいた。
「おや、幸吉さんが――ハテ、何か急用でも出来いたしたのでござりましょうか」
「まあ、会おう。これへ」
 山城守が用人に命じた。
 間もなく、下谷からこのやきもち[#「やきもち」に傍点]坂《ざか》までひた[#「ひた」に傍点]走りに駈《か
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