を開けて出るわけにはいかねえぞ!――と考えたから、尚もかれは、じイと耳を凝《こ》らして茶の間の様子を窺《うかが》うと――。
 やっぱり、人の気もないように、森閑《しんかん》としずまり返っている。
 喬之助は、何をしているか!
 かれは、どういう気でこの壁辰へ舞い込んで来たのか――それはとにかく、こう見破られてしまっては、止むを得ない。壁辰のおやじを叩き斬って、もう一度どこかに身を隠すまでだ。と、戸部近江之介の血を浴びて、面相が優しいだけに、内心|鬼《おに》のように強くなっている喬之助だ。とっさに、斬りまくってこの家を出る決心を固め、忍《しの》び足に茶の間を出ると、そこは、直ぐ台所へ続いている三尺の小廊下である。ふと、喬之助の眼に止まった物がある。廊下の壁にかけ列ねてある御用|提灯《ちょうちん》だ。どうして這入って来る時、その提灯に気がつかなかったのだろう?――うウム、さては、この壁辰は岡っ引きでもあったか――と、迂濶《うかつ》のようだが、市事《しじ》にはうとい、お城詰めの武士だった喬之助である。はじめて知って、これではまるで、われから獅子《しし》の口へ飛び込んで来たようなもの。ますますうっかりしてはおられぬ。気付かれた以上、何とあっても壁辰の息の根を止めなくては!――が、あの娘だ。あれが自分を庇《かば》い立てでもするように、自身番へ訴人することを肯《がえん》じないという――はて、どういうこころであろう? と、この危急の場合にも、お妙の心中を考え、訝《いぶ》かしく思いながら――そろりそろり跫音《あしおと》を盗んで、喬之助は、台所の戸のこっち側に立った。
 杉戸一枚の両側に、喬之助と壁辰――ともに、呼吸《いき》を凝《こ》らして、相手の動静《どうせい》をうかがっている。
 どっちも、用心して、この戸一まいが容易に明けられないのだ。
 押しつけるような閑静《のどか》のなかを、直ぐ前の御成《おなり》街道をゆく鳥追いの唄三味線が、この、まさに降らんとする血の雨も知らず、正月《はる》を得顔《えがお》に、呑気《のんき》に聞えて来ていた。
 と、壁辰が、誘《さそ》いの声を投げた。
「お若いの――いや、神尾喬之助さまとおっしゃいましたね。何もあっしが、下手な文句を並べずとも、ズンとお解りでございましょう。神妙《しんみょう》に、失礼ながらこの壁辰めの繩をお受けになりますか。それとも、この老爺《ろうや》を相手取って、ドタバタみっともねえ真似をなさるお気ですかね」
 すると、茶の間《ま》にいるとばかり思っていた喬之助の声が、案外、戸のすぐ向う側でしたので、壁辰は、ぎよッ! として戸を押さえた。
「壁辰殿」と、お里が知れた以上、喬之助も本来の侍に帰って、「甚だ不本意だが、拙者は、まだ捕まるわけには参らぬ用がござる。よって、この儘《まま》穏便《おんびん》に引き取り申す。拙者が立ち去ってから百の数をかぞえたのち、この戸をあけてお出になるがよい。あははははは」
 戯《ふざ》けた言分!――と、壁辰はすこしむっとなった。
「何を? まだ用がある? 悠長《ゆうちょう》なことを言ってますぜ。どんな用ですい」
「そうだ。用があるのだ。拙者《せっしゃ》は、まだこの裟婆《しゃば》に用があるのだ」喬之助は、夢みるような声で、
「その用というのは――あの、戸部近江之介と共に拙者を嬲《なぶ》り、ついに拙者をして今日の破目におとし入れた西丸御書院番の番士一統」
「えッ!」
「第一に、大迫玄蕃《おおせこげんば》」
「え?」
「荒木陽一郎」
「ふうむ――」
 杉戸をさかいに、奇妙な会話《やりとり》が続いている。

      五

「池上新六郎」
「ほン」
「浅香慶之助」
「ほ」
「猪股小膳」
「へえい!」
「箭作《やづくり》彦十郎」
「なアる――ほど」
「長岡|頼母《たのも》」
「へ?」
「日向《ひなた》一|学《がく》」
「――――」
「妙見《みょうけん》勝三郎」
「――――」
「保利《ほり》庄左衛門」
「みんなその方々を、一てえどうしようと仰言《おっしゃ》るんで?」
「黙って聞けッ!――保利庄左衛門――は挙げたな。こうっと、それから、博多弓之丞《はかたゆみのじょう》、峰淵車《みねぶちくるま》之助、笠間甚八、松原源兵衛――」
「な、何を、寄《より》合いじゃアあるめえし、人の名前をならべているんだ」
「飯能主馬《いいのうしゅめ》に横地半九郎――それに、山路《やまじ》重之進! この十七人だッ!」
 憎悪《ぞうお》と復讐《ふくしゅう》に燃える声だ。これが、歯を噛《か》むように、喬之助の紅《あか》い口びるを叫び出た。戸のむこうの台所では、その物|凄《すご》い気魄《きはく》に打たれて、壁辰は思わずゾッ! とした。
「その十七人の御書院番衆――それをどうしようてえのでござります? いま捕まるわけ
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