?」
 というのが聞えたから、咄嗟《とっさ》である。嘘《うそ》も出ない。魔誤《まご》魔誤して、
「へ? わっしですかい。へえ、やはり、その、その、関東でございます。はい、関東でございます――関東は、関東は、ええと、調布《ちょうふ》のはしで、へえ」
 うまく、スラスラと出鱈目《でたらめ》を言った。
 それが、お妙にコソコソ私語《ささや》いている壁辰へ聞えてくる。壁辰は、早く[#「早く」は底本では「旨く」]いけッ! とお妙を白眼《にら》みつけて急《せ》き立てながら、感づかれないように、喬之助のほうとも、言葉を合わせなければならない。
「おお、関東かい。そうだろうと思った。左官のほうじゃあ、大阪|土《づち》の砂ずりなアンてことを言ってネ。左官も、大阪《あっち》のほうがいいようなことをいう向きもあるが――」と、再びお妙へ、「な、何を愚図《ぐず》愚図してるんだ! おれがこうして、さり気なく話の撥《ばつ》を合わして足停《あしど》めしておくあいだに、すっかりこの家の廻りにも手配《てはい》をしなけりゃあならねえんだ。いけったら行けッ! は、早くしろ――」また大声に茶の間の方へ、「だが、何と言っても、職人は関東さね。江戸一円の、こう、気の荒っぽいやつに限らあね。土台《どだい》、仕上《しあ》げが違う――何をしてるッ! 早く行かねえかッ!」
「え? わっしですか。わっしがどこかへ行くんですか――」
「ウンニャ、お前、おめえさんじゃアねえ。ははははは、ちょっと当方《こっち》に話があるんだが――だからよ、大工《でえく》でも建具《たてぐ》でも、何でもそうだが、職人てものは気性《きっぷ》でね、ことに左官なんて、濡《ぬ》れ物を扱う職は、気性一つなんだ――」低声《こごえ》でお妙に、「てめえどうしても自身番《じしんばん》へ行かねえと言うのか」
「あのお客さんが何をしたというのでございます? お父つぁん、どうか訳をお話なすって――」
「べら棒めッ! そ、そんなこと、ここでくどくど[#「くどくど」に傍点]言っていられるけえ! 女子供の知ったことじゃアねえんだ。さっさと自身番へ――」
「いいえ! わたしは聞きたい!」
 お妙は、急に儼然《げんぜん》とした口調になった。
「一たいあの若いお人は、どこの何という人で、何をしたのでございます?」
「何でもいい。お上のお尋ね者なんだ。だからヨ、だから父《ちゃん》の言うことを聞いて、一時も早く五人組を呼んでここらを固めさせ、おいらが不意に面《めん》を引っ剥《ぱ》いでひっ縛《くく》ろうてんだ。な、わかったか。解ったらさ――」
「いいえ! わかりません!」
「お妙、てめえ今日はどうしたというんだ!」
「親分さん!」茶の間から喬之助の声が聞えた。「何かお取込みのようですが、御|迷惑《めいわく》なら、あっしはまた出直して来てもいいのでごぜえます」
「なあにネ、ちょいとこいつに、使いに行けと言いつけているところなんで、直《す》ぐそっちへ行くから」
 すると、この時、何を思ったか、娘のお妙が大声を張《は》り揚《あ》げて言ったのだった。
「お父つぁんは、あたしに、お前さまのことで自身番に訴え出ろと言って、肯《き》かないのでございます」
「これッ! 何を言う!」
 壁辰は、猿臂《えんぴ》を伸ばして、娘の口をふさごうとした。お妙はよろめいた。ガタガタッ! と棚へぶつかって、皿小鉢が落ち散った。
 しイん――と静寂《しずか》。
 茶の間では、すッくと起《た》ち上った喬之助が、手早く帯を締め直している。いつの間に抜き放ったのか、冷《れい》々たる九寸五分を口にくわえて。
 お妙は、父親の手を振りほどこうと、必死に※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いた。

      四

 もう仕方がない。
 客の男に知れてしまえば、これまでだ。真《ま》っ正面《しょうめん》からぶつかって、手捕りにしてくれようと、壁辰はお妙を離して、閉《し》め切ってある台所の板戸に手をかけた。
 茶の間のほうはひっそりしている。
 出て行った気配《けはい》もないが――思い切って、開けて躍《おど》り出ようとして、壁辰は手を引っこめた。待てよ!――と思うのである。
 待てよ! 日もあろうに元日に、たといどんな理由《わけ》があったにしろ、殿中である、その殿中で、ああ鮮かに上役の首を刎《は》ね、そいつを窓から抛《ほう》り込んで、自分は今日まで雲隠れしていた程の豪の者である。虫も殺さねえような、あんな面《つら》をしているが、いざとなったらどんなに暴《あば》れて、そのうえ、物の見事にずらかるかも知れねえのだ。おれだって、十手をさばかせては、腕に覚えのねえこともねえが、若しヒョッとして器用《きよう》に逃げられでもしようもんなら、この黒門町の名折れになる。これあ下手に、この台所の戸
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