切腹、非ならば極刑《きょくけい》に処さなければならない。築土《つくど》八幡の家からは喬之助妻園絵をはじめ、弟の琴二郎まで召捕《めしと》られて審《しら》べを受けている。園絵の実家神田三河町の伊豆伍はもとより、その他喬之助が立ち廻るかも知れないと思われるところへは、大岡越前守の手で洩《も》れなく手配が届いている。人相書は全市の与力《よりき》と岡《おか》っ引《ぴ》きにいきわたり、別動隊として、近江之介を殺された上自分は閉門をうけて、切歯扼腕《せっしやくわん》に耐えない脇坂山城守の手から、種々雑多の小者に変装した家臣や出入りの者が江戸中に散らばってひそかに喬之助のあとを嗅《か》ぎ廻っている。
 七日は過ぎたが、危険の最中である。今までどこに潜《ひそ》んでいたのか、縞《しま》の着物に股引《ももひ》き腹掛《はらが》け、頭髪《あたま》も変えて、ちょいと前のめりに麻裏《あさうら》を突っかけて、歩こうかという、すっかり職人姿の舞台《いた》に付いているこの喬之助である。
 黒門町の家で壁辰を待って、すぱり、すぱりと煙草の輪《わ》を吹き上げている。
 大通りに、木遣《きや》りの声が流れて来た。

   人情杉板挾

      一

 下谷長者町に、筆屋幸兵衛という、筆紙商《ふでかみしょう》の老舗《しにせ》がある。千代田城のお書役《かきやく》御書院番部屋に筆紙墨類を入れている、名代の大店《おおだな》だ。今度隣りに地所を買って建前《たてまえ》を急ぎ、このたび落成《らくせい》したので、壁一切を請負《うけお》った関係上、黒門町の壁辰も、二、三の弟子を連《つ》れて、きょうの棟上《むねあ》げに顔を出している。
 ちょうど七草《ななくさ》の日だ。
 これこそ日本晴れという天気であろう。紺いろの空に、鳶《とび》が一羽、悠《ゆう》々と輪をえがいて、気のせいか、道ゆく人の袂《たもと》をなぶる風にも、初春らしい陽《ひ》のうごきが見られる。女の廻礼は七日過ぎてからとなっている。町家の内儀《ないぎ》や娘らしいのがそれぞれに着飾って、萠黄《もえぎ》の風呂敷包などを首から下げた丁稚《でっち》を供に伴《つ》れて三々伍々町を歩いている。長閑《のどか》な景色だ。
 七草なずな、唐土《とうど》の鳥が――の唄に合わせて、とことん! とことん! と俎板《まないた》を叩く音が、吉例により、立ち並ぶ家々のなかから、節《ふし》面白く陽気《ようき》に聞えて来ていた。
 長者町の筆屋の店頭《みせさき》は、さすが町内第一の豪家《ごうか》の棟上げだけあって、往来も出来ないほど、一ぱいの人集《ひとだか》りだ。紅白《こうはく》の小さな鏡餅を撒《ま》く。小粒を紙にひねったのをまく。慾の皮の突っ張ったのが総出で、それを拾おうというのである。
 二階の足場に、三|宝《ぼう》を抱えて立ち上った出入りの棟梁《とうりょう》が、わし掴みに、下を眼がけてバラバラッ! とやるごとに、群集は、押す、蹴《け》る、潜《くぐ》る――果ては、女子供が踏まれて泣き叫ぶ。他町の者の顔が見えるといって喧嘩がはじまる。いやどうも、大変な騒《さわ》ぎだ。
 檐《のき》には、四寸の角材《かくざい》に、上下に三本ずつ墨黒ぐろと太い線を引いた棒が、うやうやしく立てかけてある。棟上げの縁起《えんぎ》物だ。まん中に白紙を巻いてしめ[#「しめ」に傍点]繩を張り、祝儀《しゅうぎ》の水引きが結んである。そのほか、この角材には、色んなものがぶら下っているのだ。まず、鏡、櫛《くし》、笄《こうがい》、かもじなど。それに、黒、緑、赤、黄と、四色の木綿片《もめんぎれ》が、初荷の馬の飾りのように、物ものしく垂れさがっている。現代《いま》でも、田舎などではどうかすると見かけることがあるが、悠長《ゆうちょう》な江戸時代には、こんなことをばかにやかましく言って、厳重に守ったものだ。
 裏手はまた職人たちで押すな押すなだ。土間《どま》にずらり[#「ずらり」に傍点]と祝い酒の鏡を抜いて、柄杓《ひしゃく》が添えてある。煮締めの大皿、強飯《こわめし》のお櫃《はち》が並んでる。下戸《げこ》には餅だ。飲むは食うは大さわぎで、やがて銘々土産の折りをぶら下げて口々に大旦那の幸兵衛に挨拶しながら帰って行く。
 広い台所に立って、一々応対をしている六十余りの禿茶瓶《はげちゃびん》が、その筆屋幸兵衛だ。首の廻りに茶色の絹を巻いて、今日だけは奥と台所をいったり来たり、一人で采配《さいはい》を揮《ふる》ってる。息子の幸吉は、三十近い、色の生《なま》っ白《ちろ》い優男《やさおとこ》である。父親《おやじ》の命令《いいつけ》を取り次いで、大勢の下女下男に雑用の下知を下しながら仔猫のように跳《と》び廻っていた。
「どうも若旦那のお酌は恐れ入りやす。いえもう、遠慮なく頂きやした――おや、これはこれは大旦那様、こ
前へ 次へ
全77ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング