ころと横地半九郎の膝の方へ転がって行った。真《ま》っ赤《か》な南瓜《かぼちゃ》のような物で、一面に毛で覆《おお》われている。博多弓之丞が、その乱髪に手をかけて掴み上げた。ぶら提《さ》げてみると、一眼でわかった。首だ、人間の生首《なまくび》だ。今まで生きて饒舌《しゃべ》っていて、勢いよく部屋を出て行った戸部近江之介の首級《くび》だ。

      七

「あの、もう直《じ》きお父《とっ》つぁんが帰って参りましょうから、どうぞ御ゆっくりお待ちなすって――」
 お妙は、客へこう言いながら、長火鉢の埋《うも》れ火を掻き起した。そうして、火箸を扱いながら、ちら[#「ちら」に傍点]とその男を見た。
 客は、若い男である。紺《こん》の※[#「ころもへん+昆」、342−上−8]襠《ぱっち》を穿《は》いた膝をきちん[#「きちん」に傍点]と揃えて、窮屈そうに、長火鉢の横にすわっている。お妙は、自分だけしかいない時に、見知らぬ男の訪客を家へ上げたことが、何だか後悔されて来て、何の用だか知らないが、早くお父つぁんが帰って来てくれればいいと思いながら、炭を足し終ると、急いで茶の間を出て、台所へ来て一人ぽつねんと立っていた。がその、女と言ってもよい美しい客の顔がお妙の眼の底にしっくり焼きついていて離れようとしなかった。
 あの、西丸御書院番組与頭戸部近江之介が、殿中のお庭先で何者かに首を奪《と》られ、そして、その首が新御番詰所へ投げ込まれて、同時に、お帳番の若侍神尾喬之助が出奔《しゅっぽん》した元日から七日経った、七草《ななくさ》の日の午後である。
 この下谷黒門町《したやくろもんちょう》の左官職《さかんしょく》壁辰《かべたつ》の家に、親方の壁辰さんに会いたいと言って訪ねて来た、職人|体《てい》の素晴しい美男であった。ちょうど壁辰は、近所に棟上《むねあ》げの式があって、弟子を伴《つ》れてそっちへ顔出ししていて留守だったので、娘のお妙が出て行って応対すると、今も言ったとおり、水の垂《た》れるような美男である。左官の下塗《したぬ》り職人などの中には、どうかすると、下町の女をほろりとさせるような粋《いき》なやつが少くないし、それに、この下谷の壁辰ほど同業に名が知れていると、左官|武者修行《むしゃしゅぎょう》の格で諸国を流れている風来坊《ふうらいぼう》が、鏝《こて》一つ丼《どんぶり》へ呑んで他流試合の気で飛び込んで来たり、または遠国から仲間の添え状を持って思いがけない弟子入りが来たりするので、母の死んだあと、父のために一切の切り盛りをしている娘のお妙は、どんな人が留守にきても、一応上げて待たしておくようにと、ふだんから父の壁辰に命令《いいつ》けられているのである。それに、壁辰は御用も勤めている。十手を預かっていて、そのほうでは今江戸に鳴らしている大親分なのである。どんな事件で、何時《いつ》どんな人がやって来ないとも限らないから、壁辰が家を明けても、客はすべて、お妙が引き受けて上げて待たしておくことになっているのだ。だから今も、この美男の職人が土間に立って案内を乞《こ》うたとき、お妙は、いつものように前掛けで手を拭《ふ》きふき出て行ったのだが、その男のあまりな綺麗さには、お妙は、もうすこしで驚きの声をあげるところだった。何しに役者が来たのだろうと直《す》ぐ思った。いや、役者衆にも、あんなのはちょっとあるまい――お妙はいま台所に立って、ぽうっとしてそんなことを考えている。
 元日早々から、いまだに江戸全体は引っくり返るような騒動《そうどう》をしていた。何しろ、殿中の刃傷《にんじょう》である。それも、斬《き》ったの張ったのという生易《なまやさ》しいのではなくて、お目出度い元日に、組頭の首が一つ脱《と》れて飛んだのだから、大変なさわぎになったのは当然である。殿中では、何の意味もないにしろ、鯉口《こいぐち》を三寸|寛《くつろ》げれば、直ちに当人は切腹、家は改易《かいえき》ということに、いわゆる御百個条によって決まっているのである。すこしでも刀を抜いているところを見付けられでもしようものなら、弁解《べんかい》も何も取り上げられずに、そのまま平河口《ひらかわぐち》から網乗物《あみのりもの》に抛《ほう》り込まれて屋敷へ追い返されることになっているのだ。そこへ、刃傷も刃傷、一役人の首が文字どおり飛んだのである。しかも、下手人《げしゅにん》らしく思われる者は、その場から逐電《ちくでん》して影も形も見せない。番頭脇坂山城守は、不取締りの故をもって一件|落着《らくちゃく》まで閉門謹慎《へいもんきんしん》を仰せつかっている。番士一同もそれぞれ理由に就いて詮議《せんぎ》を受ける。まず第一番に神尾喬之助を捕《つか》まえて事を質《ただ》し、柳営《りゅうえい》である元旦である、喬之助に理があれば
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