之助の口から洩れ出ている。大迫は、ちからまかせに喬之助の顔を一同のほうへ振り向けた。
美しい泣顔を見ることだろうと思ったのが、喬之助は泣いていなかった。
笑っていた。
心から可笑《おか》しくてたまらないように、とうとう無遠慮《ぶえんりょ》に、喬之助は大声をあげて笑い出している。
大迫に頭髪を預けたまま、それは屈託《くったく》のない笑い声だった。
まっすぐ向いて、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に笑いつづけている。この喬之助は、一同がはじめて見る喬之助である。呆気《あっけ》に取られて、さすがの近江之介もしばらく黙って見つめていた。
「此刀《こいつ》を喰《くら》わそうか」
喬之助は、相変らず愉快そうに笑いながら、周囲《まわり》の人を見渡して、帯刀の柄《つか》を叩いた。そして、立ち上った。びっくりした大迫は、とうに髷を離していた。別人のように荒々しく番衆達を突きのけて、にこにこ[#「にこにこ」に傍点]して、喬之助はさっさと詰所を出て行った。
みなぽかん[#「ぽかん」に傍点]として見送っていた。
六
はっ! とわれに返ったように、近江之介が畳を蹴立《けた》てて喬之助のあとを追おうとした。
血相《けっそう》を変えていた。峰淵、保利、荒木だの、左右に居た者が協力して、停めようとした。
「神尾は、確かに乱心致したとみえる。小心者《しょうしんもの》のことじゃ。薬が効《き》き過ぎたかも知れぬ。いま追うて出るは不策《ふさく》じゃ」
口ぐちに同じようなことを言った。
が、近江之介は、噪《さわ》ぎ立つ番衆を振り切って、もう部屋を出かかっていた。こっちから仕向けた争いであることは、衆目《しゅうもく》の見たところである。それなのに、この自分が、あの若輩を恐れ入らせることも出来ず、かえって最後に、あんな人もなげな態度を取られてみると、いきがかり上、このままには済まされぬ。しきりにそんな気がした。
「彼奴《きゃつ》、これを喰わそうかと刀を叩きおったわ。離せ! 引っ捕《つか》まえて、板の間に鼻を擦りつけてやるのじゃ。離せッ」
とうとう一同を押し切って出て行ってしまった。二、三人が、ばたばたと続こうとした。その前へ、笠間甚八と松原源兵衛が大手をひろげて立った。
「お忘れ召さるな。殿中《でんちゅう》でござるぞ!」
これが効《き》いた。殿中ということも、元旦であるということも、忘れていたわけではないが、前後して出て行った喬之助と近江之介が、何となく気になる空気を残して行った。しかし、相手はどうせあの喬之助である。大したこともあるまいが、どこか人眼につく場処で口論でもされては、新御番詰所一同の失態になるかも知れない。が、これも、考えてみれば杞憂《きゆう》に過ぎない。片方が組与頭の戸部氏である。まさか一時の怒りに任せて、そんな愚《ぐ》をするはずはない。かえって多人数がお廊下などを歩き廻っては面白くないから、安心して、ここで雑談でもしながら退出《ひけ》の時刻を待つとしよう。止められると、皆その気になって、出足《であし》を引っこめて一同詰所にすわった。
大体が、近江之介におべっか[#「おべっか」に傍点]を使うための喬之助いじめである。だから、その張本人の近江之介がいなくなると、自然喬之助のことは忘れて、話題は急速にほかのことへ移って行った。駒場の鳥狩《とりがり》のこと、その時の拍子木役のむずかしかったこと、馬のこと、酒のこと、煙草のこと、刀のこと、女のこと、など、など、などである。ときどき、お終いに来て笑い返して出て行った喬之助のことが、誰かの胸へ帰って来て、ふっと気味の悪い沈黙の種となった。何だか、あの喬之助を見損《みそこな》っていたようにも考えられるのである。悪かったかな――かすかに、そんな気もした。
で、大迫が、また喬之助を会話《はなし》へ持ち出して来て、
「笑いおったな。あいつめ。気《き》が狂《ふ》れたように笑いおった。拙者も、いささかぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、髷を持つ手を離してしもうた。いや、豪胆な笑いじゃったぞ」
「何の、豪胆なことがあるものか。大迫氏は御自身を台に判断して、あの卑怯者を買い被《かぶ》っておらるる」
「そうかな」
「そうとも。たといかの柔弱男子が悲憤慷慨《ひふんこうがい》したところで、畢竟《ひっきよう》人形の泪《なみだ》じゃわい。何ごとが出来るものか」
荒木陽一郎が、請《う》け合うように、こう言い切った時だった。
部屋の横手に、お庭に面して窓がある。
閉《た》て切った障子越しに、寒ざむしい白い陽《ひ》ざしが覗いていた。その障子が、何者かの手によってぱッと戸外《そと》から開けられたかと思うと、そこから、円い大きな物が一つ、すうウッと尾を引いて飛んで来て、どさり一同の座談の真ん中へ落ちた。ころ
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