束、そうか」
 造酒が相好を崩した時、かしこまっている門弟のうしろに人影がうつって、
「御めん下さいまし。勝手に上りこんで参りました――さあ、こちらへ。そう何も怖がることはない」
 長庵が、お妙を押《お》すようにしてはいって来た。

      三

 この源助町の道場へ、長庵がお妙をつれこむのを見すまして、魚心堂はどこへ行ったか。
 それから間もなくである。
 また一人の侍が、この道場の玄関に立って案内を求めている。
 妙見勝三郎《みょうけんかつさぶろう》である。
 妙見勝三郎……御書院番士の一人。肩幅の広い、ガッシリした、四十恰好の侍だ。
 黒羽二重の羽織に、袴《はかま》、リュウとしたなりだがその夜ふけに供もつれずに何しに来たのか――それはとにかく。
「頼《たの》もう、頼もう……」
 と、しきりに奥を覗き込んで呼《よばわ》っているそのうしろ姿である。
 背中のまん中、上寄《うわよ》りのところに、羽織の紋をかくして半紙一枚の貼紙がしてあるのだ。
 背中の貼紙――「亡者《もうじゃ》」と大書してある。
 亡者……と書いた紙を背中に背負《せお》って、妙見勝三郎は神保造酒の許を訪ずれて来ているのだ。
 勿論、自分は知らないのだろう。
 誰だって、うしろに眼がないから、背中には何を書かれたってわかりっこない。
「頼もう、お頼み申す」まだやっている。
 背中に「亡者」の貼紙をしょった妙見勝三郎……不気味な夜の訪問者である。
 が、聞えないのか、奥からは誰も出て来ない。
 その奥の座敷では、造酒が、お妙を仲に長庵と対座《たいざ》して、「此娘《これ》が、脇坂殿よりお話のあった――」
「さようでございます。これがその、例の……」
 喬之助妻園絵という事を口に出しては、お妙が、そうではない。自分は――と言い出すにきまっているから、どうせあとで知れることではあるが、今は何とかこのまま押しつけて終《しま》わなければならない。
 曖昧《あいまい》な事を言って誤魔化《ごまか》してしまおうとするのだが、造酒は、テッキリ園絵とばかり思いこんでいるので、深く追究もない。
 ただお妙だけは、不思議なところへつれて来られて、それに自分についてさっぱり訳のわからないことを言いあっているようだが……と、少からず警戒《けいかい》の心が動いている。
 が、それでもまだ長庵を信じているので、黙って、うつむいて控えていると、さっき台所へ酒を取りに行ったお六が帰って来て、はいってこようとして障子のあいだから覗《のぞ》き込んだ。
 そして、長庵と顔が合って、あッ! と両方が驚いた拍子に、お六の手から銚子《ちょうし》が辷《すべ》り落ちて、……途端に、あわただしい跫音《あしおと》が廊下を飛んで来た。
 先刻の門弟である。
「先生、お玄関に、屍骸《しがい》が――首のない屍骸が……来て見て下さい!」
「何ッ!」
 畳を蹴《け》って突っ立った神保造酒、流石《さすが》は剣士、何時の間にか大刀を右手に部屋を走り出る、とプウーン! と鼻をつく線香のにおいが、どこからか香《にお》って来ている。
 見ると、隣室である。
 そこは書院だ。床の間のまえに、経机《きょうづくえ》が一|脚《きゃく》置《お》いてある。
 その上に首――妙見勝三郎の首、たった今玄関で呶鳴っていた妙見勝三郎の首……その首が、紙片《かみきれ》をくわえている。
 紙には、十番首と大きく書いてあるのだ。そして、机の前に煙草盆《たばこぼん》を置いて、それに線香が立ててある。
 紫のけむりがユラユラと――首供養《くびくよう》。造酒は、首を白眼《にら》んで、ウウム! と唸った。

   なみだ雨《あめ》

      一

 無形一刀、天下無二の使い手神保造酒先生は、紫いろの線香のけむりがユラユラと絡《から》む首を白眼《にら》んでウウム! と唸《うな》った。
 書院の床の間のまえに、経机が置かれて、その上に、生首が一つ飾《かざ》ってあるのだ……妙見勝三郎の首、たった今玄関で、
「頼もう!――お頼み申す!」と呶鳴《どな》っていた妙見勝三郎の生首である。
 しかも、その首が、紙きれをくわえているのだ。紙には、十番首と大きく書いてある。そして、机の前に煙草盆を置いて、それに線香が立ててある……首供養《くびくよう》!
 何とも不敵な趣向《しゅこう》だ。
 銀百足《ぎんむかで》の名ある豪刀を引ッ掴んだ神保造酒、さすがに度胆《どぎも》を抜かれたのか、片手を障子にかけたまま、その座敷へ踏み込みもせず、じッ! 眼を据えて凝視《みつ》めている。
 どうしてこの首がここにあるのか――考えて見た。
 今の先、お六を相手に酒を呑んでいると、玄関に人の訪れる声がした。お六が取次ぎに出ようとするのを止めて酒を取りにやったのだが、それと入れ違いに門弟の一人が来て、脇坂山
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