て」
見ると、お絃は知らないが、お妙は、父壁辰の出入り先、下谷長者町の筆幸の店で度たび見かけて覚えがある。それに、しつこく自分をつけ廻して困らせられている筆幸の若旦那幸吉からも、いつか聞かされたことのある、麹町平河町とかのお町医、村井長庵という偉い先生――お妙は、娘ごころに長庵を偉い先生と思いこんでいる。飛んだえらい先生があったもので――その村井長庵先生だから、お妙は、これこそ地獄で仏というのだろう、跳び立つように駈け寄って、
「あ! 長庵先生ではございませんか。この人に追いかけられて、こちらへ逃げこんだのでございますが――」
「ほう、それはそれは、大変な御災難、あんたは下谷の壁辰さんの娘さんでしたね。いや、長庵が参ったからにはもう大丈夫。お送りしましょう」そして、こそこそ逃げ出そうとしている戸塚の三次へ、長庵、いい気もちそうに反《そ》っくり返って、「コレコレ、お前は何者か。不届きなやつめ! 早々退散いたしたほうが身のためであろうぞ」
大層《たいそう》片《かた》づけておっしゃった。三次は大恐縮、ヘイコラ頭を掻いて出て行く。これがみんな、予《あらかじ》め仕組んだ芝居とは知らないから、お絃もそばから言葉添えをして頼んで、長庵が黒門町までお妙を送って行くことになり、まるで、娘を助けられた親のような口調で長庵が礼を言ってお妙とともにそとへ出ると、頭上に、一抹の銀河は高く白い――。
喬之助の妻園絵を芝源助町の神保造酒の許へつれこめば、交換に、筆幸に油御用が下りるように取り計らってやろうという脇坂山城守のことば。筆幸のほうが成立すれば、謝礼はたんまり転がり込むのだから、長庵、いや、よろこんだの何の、はいはいの二つ返事でお引き受けして、山城守と固い約束を結んだものの、園絵は、築土八幡の家に引きこもったきり、決して外出することがないのだから、機会を狙っているうちに日が経《た》つばかりで、長庵やきもきしていたところへ、きょう戸塚の三次がブラリ訪ねて来て、長庵はこれに相談してみた。
先方の剣術使いは、園絵の顔を知らないのだ。誰でもいいじゃないか。若い綺麗な女なら誰でも――と考えて来て、長庵の思い出したのが、筆屋の幸吉がメートルを上げている黒門町のお妙であった。
首供養《くびくよう》
一
初秋の夜、頭上高く一抹の銀河は白い――。
不思議な人影が、神田は帯屋小路の往来でブラブラ歩いている。
丸太ン棒に細い枝が一本ついてるような奇妙な、影法師が。
そいつがこの星明《ほしあか》りに浮かれ出して、フワフワと泳ぎ出したように、風に吹かれて深夜の街を散歩しているのだ。
他《ほか》でもない……魚心堂先生である。
詳《くわ》しく説明すると、その人影の幹《みき》とも謂うべき丸太ン棒のような部分が魚心堂先生、それにクッ着いている小枝のようなところは、先生が担《かつ》いでいらっしゃる釣竿《つりざお》である。
というのは、わが魚心堂先生は、いつもこの釣竿を離したことがない。常住坐臥《じょうじゅうざが》、釣竿と一緒に起き、釣竿と一しょに寝ているのだ。
それほど魚釣《つり》が好きなのかというと、勿論好きなことも好きなのだが、先生に言わせると、釣りは魚を得るのが目的ではなく、ひとつの澄心《ちょうしん》の修業だとある。
つまり、魚心堂先生の釣りは、先生の哲学《てつがく》であり、禅《ぜん》であり、思索《しさく》であり、生活である――こういう喧《やか》ましい因《いわ》れから来て、魚心堂先生の名もある訳……。
神田の真ん中に迂路《うろ》うろしていて、そう釣りの出来るはずもない。
が、ただ先生は、いま言ったように釣竿をかついでノソノソしていれば気が済むのである。変り者……と言えば変り者に相違ない。一種の心学者、乞食のような生活と、王侯のような心を有《も》った巷《ちまた》の大先生であった。
居所なども一定していないで、飽くまでルンペン性を発揮し、釣りをする池の傍に一夜を明かしたり、そうかと思うと、空家の押入れに一月も二月も泊ったりしている。
今なら浮浪罪で挙げられるところだが――その上先生は、大きな樹に登って、その幹《みき》の股に陣どって二晩でも三晩でも眠っているのが常だったというから、この頃アメリカなどで流行《はや》る滞樹上競争は、この魚心堂先生が元祖である。
伊勢の生れで、れっきとした武家出なのが、何か感ずるところあって――経歴はとにかく、扮装《なり》がまた嬉しい。
つんつるてんの紺絣《こんがすり》の筒っぽに白木綿《しろもめん》の帯《おび》をグルグル巻きにして冷飯草履《ひやめしぞうり》、いま言ったように釣竿を肩にどこにでも出かける。
この魚心堂先生が、いつかの晩、先生が悪戯をして喧嘩渡世の茨右近の頭へ釣針を引っかけて糸引き
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