さまだと、にっこりして、
「いらっしゃい。喧嘩? うちの人は居ませんよ」
 戸塚の三次は、何も言わずにズイとはいりこんで、パラリ、手拭を取りながら、そいつを肩《かた》へ載《の》っけて、じろりとお妙を見た。
 ちょいと凄味《すごみ》を見せようというつもりらしい。勝手に上《あが》り框《がまち》へ腰を下ろして、精《せい》ぜい苦味走って控えながら、
「仁儀てえところだが、まま御めんなせえよ――ところで、姐御、れこ[#「れこ」に傍点]は居ねエッてったね?」
 三次は、拇指《おやゆび》を出して見せた。変なやつだと思いながら、お絃がヒョイとお妙を見ると、悪者と言ったのは此男《これ》のことなのだろうとすぐ気がついたほど、お妙は、真青になって、木の葉が風に吹かれるようにふるえているのだ。
 知らずのお絃は、素早く客の正体を掴《つか》んで一時に強く出た。
「うちの人はいないけど、お前さんなんかに舐《な》められアしないよ。何の用だい」
「何の用? テッ! 何の用もかんの用もあるけえ」お絃のかげに隠れるように、土間の隅に小さくなっているお妙へ顎《あご》をしゃくって、「これア何家《どこ》の娘だ、何家の。え?」
 弱いほうに味方するこころ、お妙のために口をきいてやろうという気がすわって、知らずのお絃は、ソロソロ性得《もちまえ》の鉄火肌《てっかはだ》を見せ出した。上りくちにしゃがんで、膝に頬杖をつきながら、切れの長い眼に険《けん》を持たせて、ジーッ! 三次を見つめた。
「どこの娘? どこの娘だっていいじゃないか。知りあいの家の娘さんさ。大きにお世話だよ。お前こそ、どこの人だい。江戸じゃアあんまり見かけない鬼瓦《おにがわら》だねえ」
「何を吐《ぬ》かしゃアがる。知りえいの家の娘もねえものだ。これアおいらの妹、おいらアこれのお兄様《あにいさま》なんだ。いいか、わかったか。わかったら、つれて行くぞ。文句はあるめえナ」
「飛んでもない!」お妙が、お絃のうしろから、恐怖におののく声で、「兄だの、妹だのと、みんなうそでございます。わたくし、そんな方にお眼に掛ったこともございません」
「ソレソレ、それがお前の病《やまい》というものだ」三次は、ちょっと優しい眼になって、お妙のほうへ擦り寄りそうにしながら、「アア情ねえ。なさけねえ。いくら狂っているからって、現在てめえの兄貴ともあろうものを見忘れるなんて――」
 いきなり三次は、手を伸ばしてお妙を引き寄せようとした。
「サ、帰《けえ》るんだ。帰るんだ。な、父《ちゃん》もおふくろも待ってらあ。ヨ、おいらといっしょに帰ろうじゃねエか」
「まア! 何をいうのでしょう」お妙は、呆れ返って口もきけないといったようすだ。「わたしがそこまで来かかると、この人が横あいから飛び出して来て、へんなことを言ってわたしを掴まえそうにしますから、びっくり逃げ出して、つい此家《こちら》さまへ駈けこんだのでございます。すっかり兄妹ということにあなたさまのまえをつくろって、おびき出そうなんて、ほんとに図々しいにもほどがあります。」
「おウ、今もいう通り、これアおいらの妹で、ちっとばかり気が狂《ふ》れてるんだ。この先の伯父貴の家へ行こうと、そこまで来るてえと、やにわに突っ走りやがってここへ飛び込んだんだが、つれて帰るぜ」
 三次は、そうお絃に言いながら、起ち上っていた。
「お待ちよ。そんな古い手は、よそじゃア知らないけれど、この神田じゃアきかないんだよ。あたしがこうやってにこにこ笑っているうちに、お前さん、とっとと帰ったほうが利口《りこう》のようだね。出直しておいでよ、顔でも洗ってサ」
「ナナ何だ?」ガラリと調子を変えた三次だ。「出直せだと? 面《つら》洗って出直せだと。ヤイヤイこのおれを誰だと思う」
 相手が女と侮《あなど》ってか、人もあろうに、今評判喧嘩渡世の大姐御、御意見無用いのち不知の知らずのお絃ちゃんにたんか[#「たんか」に傍点]を切ろうというのだから、さてはこの戸塚の三公、神田へ来てお絃の顔を知らないところを見ると、こいつ、精々《せいぜい》長庵の下廻りをつとめるくらいが関の山で、大きなことをいっても、やくざ仲間では、どうやらモグリらしい。
 そこはやはり、貫禄というものは争えない。お絃は、クスクス笑い出していた。
「お前の名なんか、聞きたかないよ。お帰りったらお帰り」あっさりしたもので、犬でも追い払うような手つきをする。「サ、お帰りよ」
「戯《ふざ》けるなッ! 兄が妹をつれて行くに何の文句があるんでエ。帰《けえ》るには帰るが、妹をつれて帰るんだ。来いッ!」
 三次が、大声を揚げて呶鳴り散らしていると、おもての戸が開け放しになっていて、家内《なか》が見える。通りかかった人がふと覗《のぞ》き込んで、
「御めんなさい。何ですね、この夜ふけに大きな声をし
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